中関白藤原道隆・伊周の没落と七日関白の藤原道兼をわかりやすく解説する

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前回の記事(寛和の変とは?花山天皇の出家と一条天皇即位【藤原兼家の大勝負】)では、藤原道長の父である藤原兼家が寛和の変(かんなのへん)により強引な手法で花山天皇を追放。そして、兼家から見て甥っ子に当たる一条天皇を即位させ、念願の天皇の外戚の地位を獲得した!という話をしました。

一条天皇の即位により、藤原兼家は天皇の外戚として権力を振るうようになります。今回は、その藤原兼家からその息子たちの世代、つまり藤原道長の世代へと権力が移っていく様子を見ていきます。この記事では紹介しきれていませんが、藤原道長も親族同士での熾烈な権力争いへと巻き込まれていくことになります。

摂関職に変革をもたらした藤原兼家

藤原兼家は、一条天皇の外戚として摂政職に就いて権勢を振るっていくことになりますが、その摂関職という役職自体を大きく変えてしまいます。摂関職に変化が起きたのは、寛和の変が起こったのと同じ986年でした。

摂関職は3公(太政大臣、左右大臣)を超越する存在へ

藤原兼家が登場する以前から摂政や関白という役職はあったわけですが、そもそも摂関職というのは独立した役職ではありません。摂関職とは大臣(太政大臣とか左右大臣)が兼務する役職であり、「摂政」とか「関白」とかいう独立した役職はなかったわけです。

ところが、藤原兼家はこの慣習を変えてしまいます。当時、藤原兼家は右大臣です。序列的に右大臣→左大臣→太政大臣の順に偉くなっていくので、一条天皇の外戚となった兼家が出世するには、左大臣か太政大臣となる必要がありました。しかし、当時は、左大臣も太政大臣も既に任命されている人物がいたため空きがありませんでした。

一条天皇の外戚という立場を利用して実力行使する方法もありましたが、藤原兼家は実力行使はしませんでした。というか、むしろ大臣の職を辞してしまいます。

藤原兼家は、非常に頭が切れるというか、柔軟な発想力の持ち主だったようです。藤原兼家は、「空いているポストがないなら、摂政という独立した大臣を超越した役職を新たに創設すればよい」と考え、一条天皇に働きかけました。

このとき、一条天皇はわずか7歳。兼家に反論するはずもなく、兼家の目論見は実現します。こうして、兼家は今まで官僚制度のトップだった大臣を超越した存在として君臨することとなり、会議などの席でも大臣よりも上席に座ることになります。

おそらく、私たちがイメージする摂政とか関白というのは、政治の世界で抜きんでた権力を持つ者・・・というイメージだと思います。そのような明確に大臣から超越した摂関職を作り上げたのが兼家なのです。

また、この兼家の試みによって、太政大臣というのは再び名誉職の意味合いが強い役職へ戻っていきます。

超スピードで出世する藤原道長とその兄弟

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(クリックで別ウィンドウで開きます)

また、即席でパワポで造った系図を用意しました。雑ですが、登場人物のことが良くわからなくなったら上の系図で確認してみてください。

藤原兼家は、一条天皇の摂政となった後、息子たちを異例の早さで出世させます。この兼家による超スピード出世で一番得をしたのは、一番身分の低かった末っ子の藤原道長でした。

こうして、大出世を遂げた兼家の息子たちが、兼家の後を継いでいくことになります。

兼家の死と長男の藤原道隆

特に長男の藤原道隆は、兼家の死後、その役職を引き継ぎ摂政となります。兼家は、摂政の位を格上げした986年から4年後の990年に没しました。

遂に時代は兼家の息子たち、つまり藤原道長世代へと移っていきます。とは言っても、藤原道長は末っ子なので、主役になるのはもう少し先の話。

前回の記事から続けてお読みいただいている方だと、なんとなくわかるかもしれませんが、世間一般では藤原道長が最高権力者として有名になっていますが、卓越した知能と権力欲でその土台を作り上げたのは間違いなく父の兼家です。藤原道長だけを見ても、この時代の摂関政治はうまく理解できないと私は感じます。そして、この時代の摂関政治を理解するためのキーパーソンは藤原兼家だと私は思っています。

清少納言の「枕草子」誕生

藤原道隆は天皇との血縁関係を一層強めるため、990年、娘である藤原定子を一条天皇に嫁がせ、中宮(正妻)としました。一条天皇11歳、藤原定子15歳という若い夫婦が誕生します。

この藤原定子に寵愛され、定子のプライベートな使用人として貴族社会で生活し、あの有名な「枕草子」を書き上げたのが有名な清少納言です。

ここでは清少納言や枕草子の詳しい話には触れませんが少しだけ紹介してみました。

藤原道隆の息子、藤原伊周(ふじわらのこれちか)の登場

990年に摂政となった藤原道隆は、それからたった5年後、995年に没してしまいます。死因は、酒の飲みすぎによる糖尿病だったのではないかと言われています。藤原道隆は、大酒飲みで明るい人物だったみたいです。

こうしてまたもや、次期関白(995年になると一条天皇は成人していた!)を決めねばなりません。

この次期関白を巡り、実は朝廷内では一悶着ありました。藤原道隆の息子である藤原伊周(ふじわらのこれちか)が関白になりたいがあまり、朝廷内で暴走を始めてしまうからです。

激怒する一条天皇、傲慢すぎる藤原伊周

体調を崩し死を覚悟した藤原道隆は、次期関白を息子の伊周に託そうとしました。自分が亡くなるまでの間、伊周に関白の代行をさせようと考えたのです。

道隆はこの考えを一条天皇に打ち明け、一条天皇も了承し、天皇から勅命(ちょくめい。天皇の命令)を出すことになりました。

一条天皇は、藤原伊周に対して次のように命令しました。「関白が病に伏せている間、もろもろの文書や宣旨(天皇からのお言葉や文書)は、まずは関白に目を通してもらい、次に内大臣(藤原伊周)にも目を通してもらったうえで、処理をするように!

ここまでは、とても順調でした。藤原道隆も一条天皇も何も文句はありません。

しかし、藤原伊周がこの平和な雰囲気をぶち壊します。伊周は、こんなことを言いました。「俺が父(藤原道隆)から聞いた話と違う!文書や宣旨はすべて俺だけを通せばよいのだ。父を通す必要はない!

こうして天皇の勅命に反論し、突き返してしまいました。天皇の命令を突き返すというのは当時では、異例の出来事でした。一条天皇は、この出来事を通じて、伊周に対して不信感を抱くようになります。

そしてその次の日、一条天皇はこんな勅命を出しました。「関白が病の間、もろもろの文書は内大臣(藤原伊周)を通すように。」と。

せっかく言われたとおりに修正したのに藤原伊周はこれでも納得しませんでした。「関白が病の間」というのが気に入らなかったのです。「病の間」だと関白(藤原道隆)の病が回復したり、亡くなってしまうとその勅命は白紙になってしまうからです。藤原伊周はこれをなんとか「病の替」という表現に直せないかと考えます。伊周としては、「関白が病だからその間だけ関白の仕事をよろしく!」という勅命ではなく、「関白が病だから替わりに関白の仕事をあなたに譲りましょう」としてほしかったのです。

伊周は、朝廷内で実際に文書を作成する部署へ圧力をかけました。

おい、ここの『病の間』を『病の替』に変えろ!!!

しかし、官僚たちはこの圧力を無視。藤原伊周は当時、20歳前後の若造でした。無視されるのは仕方ありません。官僚たちは一条天皇に言われたとおりに文書を作成します。

一条天皇も意図的に「病の間」という表現を使ったようで、藤原伊周の関白就任を拒絶していたことがわかります。一条天皇からすれば、わがまま勝手をいう伊周に怒りがあったはずで、それに加え、伊周はどうやら細かいことばかり気にする性格で、器の小さい男と見られてしまったようです。(上での「間」じゃなくて「替」にしろ!って話もなんとなく、器の小さい気がしますよね。)

七日関白の藤原道兼(ふじわらのみちかね)

995年、藤原道隆が亡くなり、次に関白となったのは、道隆の弟である道兼でした。道隆の息子である伊周は関白になれなかったことに落胆しました。一条天皇は、伊周を明確拒否したのです。

もともと、一条天皇も藤原道隆も伊周を次期関白にしようとしていたので、何もしなければ関白になれたはずです。伊周の行動は愚かというか、本当に器が小さい男だったのだなと思います。伊周はとても勿体ないことをしてしまいました。

藤原道兼、無念の死

藤原道兼が関白になったのは4月27日、道兼はその後5月8日に亡くなってしまいます。藤原道兼はせっかく関白になったのにたった10日ほどで亡くなってしまったことになります。

このため、わずかな期間しか関白になれなかったことを称して、藤原道兼は「七日関白」と呼ばれたりします。(なぜ七日なのかはよくわかっていないようです。5月2日に関白として初めて天皇の前に姿を見せたことからここから数えて7日というのが有力。)

実は、藤原道兼は別の記事で一度登場しています。寛和の変についての記事です(寛和の変とは?花山天皇の出家と一条天皇即位【藤原兼家の大勝負】)。

寛和の変は、藤原道隆・道兼の父である藤原兼家が摂政となるきっかけになった藤原氏にとって重要な事件でした。

兼家が摂政になるには、外戚である一条天皇を即位させる必要があり、当時の天皇だった花山天皇は邪魔な存在でした。そこで花山天皇強制譲位計画を立て始めた兼家ですが、この計画を実行に移した一番の功労者こそが兼家の息子である道兼でした。父のため、最前線で活躍していたというわけです。

そんな経緯もあり、藤原道兼は自らが摂関職に就くことを強く望んでました。心中には「父が出世し、兄の道隆が関白になれたのも寛和の変での俺の活躍があってこそである。藤原一族を大きく躍進させた功労者である私こそが摂関職にふさわしい・・・」のような想いがあったはずです。

悲願の関白に就任できたにも関わらず、たた10日ほどで亡くなってしまった道兼の心中には煮え切らぬ想いがあったことでしょう。そんな、哀愁漂う?エピソードが七日関白という呼び名には込められています。

まとめ

以上、中関白と呼ばれていた藤原道隆と伊周、そして七日関白の藤原道兼のお話を一気にしてみました。ちなみに、説明は特にしてませんが、「中関白」というのは、藤原道隆の一族のことを指します。この記事では、道隆とその息子の伊周が「中関白」ということになります。

通史的にはかなりマニアックな内容だと思いますが、このあたりの藤原氏の話は、人間味あふれる内容が多くて意外にも書いていても面白いです。(最初は面白くないと思ってました)

七日関白の藤原道兼が亡くなった後、次の摂関職をめぐって、藤原伊周と藤原道長が対立していきます。

次回は、そんな対立の中で起こった長徳の変という事件について見ていきます。ようやく藤原道長が歴史の表舞台に登場することになります。

【次回】

今回は、長徳の変という事件について説明します。この事件の意義は、長徳の変によって藤原道長のライバルだった藤原伊周が没落したこ...

【前回】

前回は、藤原兼家と兼通の摂関職を巡る兄弟争いについて見ていきました。 結局、兄の兼通の勝利に終わり、弟の兼家は不遇の時代を...

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