源義朝ってどんな人?保元・平治の乱と源頼朝との関係とは?わかりやすく紹介!

今回は、鎌倉幕府を開いたことで有名な源頼朝・・・ではなくて、その父である源義朝(みなもとのよしとも)という人物について紹介したいとおもいます。

源氏と言えば源頼朝や義経ばかりが有名ですが、その父である源義朝の生涯もまた、息子たちに劣らぬ波乱万丈の人生でした。

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関東の覇者となった源義朝

源義朝は1123年、源為義の子として生まれます。しかしながら、父の源為義の当時の境遇は不幸のどん底そのものでした。源為義は、白河法皇の院近臣として活躍していましたが、たび重なる不祥事でその地位は失墜。さらに視点を変えて地元の関東地方を見てみると、源氏同士が熾烈な領土争いに明け暮れる日々・・・。おそらく、為義の目には源氏の未来は非常に暗いものと写っていたことでしょう・・・。

凋落してしまった源為義は、もはや幼き義朝を平安京に置いても意味がない・・・と判断したのか、義朝を東国へ向かわせることにします。こうして、源義朝は幼き時代を戦に明け暮れていた関東地方で過ごすことになります。

為義の予感は的中し、若き源義朝は関東地方でメキメキと力をつけます。相模地方一帯に確固たる基盤を築き上げ、多くの武士を率いる関東(特に南関東)のボス的な存在になっていました。源義朝がまだ20代の頃のお話です。

関東地方は、平将門や平忠常が反乱を起こしていた時代から武力がモノを言う地域です。このことから、若くして関東に基盤を得た源義朝もまた、武勇に優れた強者だったことが伺えます。

さらに、源義朝の武勇は各地に伝わったことや関東地方を一旦平定できたことを機に源義朝は平安京への進出を目指すようになります。

源義朝の躍進 ー鳥羽上皇の院近臣ー

源義朝は、1147年、由良御前(ゆらごぜん)という人物と結婚します。この由良御前の家は、鳥羽上皇の院近臣を輩出している家であり、源義朝はこれを利用して自らも鳥羽上皇の北面の武士(上皇の護衛役)の任に就くことになります。

鳥羽上皇は僧兵の強訴などへの対抗武力として、武勇で名を馳せていた源義朝を重用するようになります。さらに1151年、源義朝は下野国の受領に任命されるまでになります。後三年の役で活躍した源義家以後、一族争いなどで凋落しつつあった源氏にとって源氏から受領が登場したことは、特筆すべきことでした。「僧兵の強訴」って何?という方は以下の記事を参考にしてみてください!

院政という新スタイルの政治を始め、天皇の父の立場から強大な権力を手中に収めた白河法皇ですが、次のような有名な名言を残しています。 ...

絶世の美女、常盤御前(ときわごぜん)に一目惚れ!

鳥羽上皇へ仕えている頃、近衛天皇の皇后に仕えていた女官の中に常盤御前という絶世の美女がいました。常盤御前は見た目はパーフェクトなのですが、残念ながらその身分が低過ぎて貴族達からはなんの浮いた話も出てきません。今でいう「友達だったり彼女にするのは良いけど、結婚はちょっと・・・」という感覚でしょう。

ところが、源義朝はこの常盤御前に惚れ込んでしまいます。武士だった源義朝は、貴族達のように身分のことを強く考えることがなかったようです。常盤御前は、関東武士の代表格でもあった源義朝のアプローチを受け入れることにします。こうして、源義朝は絶世の美女を手に入れることに成功します。常盤御前の身分の低さによってあまり常盤御前に言い寄る男が少なかったことが義朝にとっては幸いでした。

ちなみに、当時は男が複数の女と関係を持つことは普通であり「由良御前がいるくせに美女に惚れるなんてなんて浮気ヤローだ!」ということにはなりませんので、一応補足しておきます。

こうしてトントン拍子に成長してゆく源義朝の経過を知るとその人生は順風満帆のように思えますが、実はそうでもありませんでした。源義朝が鳥羽上皇に近侍したことにより、為義との親子関係が決定的に悪化してしまうのです。

為義と義朝の親子関係

源義朝が鳥羽上皇に接近して受領にまで成った一方、父の源為義は院近臣から失墜した後その武力に期待する摂関藤原氏が接近し、摂関家と強い結びつきを持つようになっていました。

鳥羽上皇と摂関藤原氏はその立場的に、対峙することはあってもお互いに親密な関係になることはありませんでした。このような鳥羽上皇と摂関藤原氏の関係から、それぞれに近侍する義朝と為義の関係も次第に微妙なものになってゆきます。

そして1155年、義朝と為義の関係を完全に瓦解させる事件が関東で起こります。関東地方の領土争いや一族の家督争いをきっかけに、義朝の長男だった源義平(よしひら)という人物が、義朝の異母弟(為義の次男)だった源義賢(よしかた)を襲撃する事件が起こったのです。

こうして、次男を殺された為義と義朝の関係はもはや修復不可能となり、この翌年の1156年に起こる保元の乱においてもこの両者は対立することになります。

源義朝と保元の乱

1156年、保元の乱により義朝と為義は武力で真っ向から衝突します。結果、為義側が敗北し、為義は息子の義朝に斬首されました。保元の乱の詳細はここでは触れません。詳しくは、以下の記事を参考にどうぞ。

今回は、人間関係が複雑でよくわからないことで有名な保元(ほうげん)の乱について紹介したいと思います。この記事だけでは...

勝者となった源義朝は出世に成功します。ところが、信西の策略により同じく武士として有名だった平氏が源氏など目にも入らぬほど凄まじい出世を遂げており、源氏勢力は下火になってしまいます。

源義朝と平治の乱

平氏は、親密な関係にあった信西の策略により凄まじい出世を遂げますが、その信西が権勢を振るうようになると、次第に信西反対派の勢力が生まれます。信西は身分の低い生まれであり、そんな信西が権力を掌握していることや、実施していた政治改革が急進的過ぎたことが信西反対派の勢力を生み出してしまったのです。

ちなみに、信西については以下の記事を参考にどうぞ。

今回は、保元の乱・平治の乱で活躍した人物の1人である信西(しんぜい)という人物について紹介してみたいと思います。信西...

信西反対派の中に、藤原信頼という人物がいました。この人物が主導となり信西反対派勢力は、信西に奇襲を仕掛け、1159年の冬、信西を殺害してしまいます。源義朝は、義朝自身信西のことをよく思っていなかったことや藤原信頼と関東の土地関係で関わりがあったこともあって、信西反対派に加担し信西殺害時にも活躍するほどでした。

平清盛の逆襲

信西に重用され、栄華を極めつつあった平氏の棟梁だった平清盛(たいらのきよもり)は、この信西反対勢力に対して反撃を仕掛けます。

この平清盛からの反撃に信西反対派は敗北。源義朝は平安京を抜け出し、母国の東国へ逃げ体制を立て直そうと試みますが、その逃走中に味方の裏切りにより殺されてしまいます。

源義朝の死により源氏の平安京内での地位は失墜。そして豊富な武力、財、それに加え一定の官位を持つ平氏は貴族をも凌ぐほどの大繁栄と遂げ、有名な「平家にあらずんば人にあらず」という名言を残すことになるわけです。

源義朝の2人の息子、頼朝と義経

平治の乱で敗走した源義朝には2人の息子がいました、2人とも歴史的に超有名な人物で源頼朝(みなもとのよりとも)源義経(みなもとのよしつね)と言います。

源頼朝は由良御前と義朝の間に生まれた子で、平家を滅ぼし鎌倉幕府を開いた人物。

源義経は常盤御前と義朝の間に生まれた子で、源平合戦における武勇と知略、そして悲劇的な人生が今も多くの人を魅了しています。

源頼朝

平治の乱による敗戦後、頼朝は父と共に東国へ逃走しますが途中で父とはぐれ、平清盛軍に捕まってしまいます。

平治の乱の敗北により、父義朝や兄弟達が次々と殺されてゆく中、捕虜となった源頼朝にも当然死刑が待っていると思われましたが、なぜか源頼朝は殺されませんでした。

では、なぜ頼朝は死刑を免れることができたのでしょうか?・・・この点については様々な説が唱えられているようですが、実ははっきりとしたことはわかっていません。信西亡き後の朝廷の権力者は平清盛だったので、少なくとも平清盛が何らかの理由で死刑をストップさせたのは間違い無いでしょう。何れにしても奇跡的に頼朝の命は助かり、伊豆への流罪でことなきを得ました。

そして、源平合戦が始まると頼朝は伊豆を抜け出し、平氏を滅ぼし、鎌倉幕府を開くのです。まさか没落した源氏嫡男の頼朝に平家が滅ぼされるとは平清盛も予想だにしなかったはずです。結果的に、頼朝の命を救ってしまったことは平家にとって大きな大きな災いとなってゆきます。

源義経

義経は1159年に生まれました。平治の乱が1159年の晩年に起こったので、生まれてすぐに父を失ったことになります。義朝の死によって未亡人となった常盤御前は、平清盛に寵愛されるようになり、おかげで義経も幼少期は比較的平和な時代を過ごします。

その後11歳で鞍馬寺に預けられ、1170年頃には母の再婚相手(公家の人と結婚していた)の縁を伝って、東北の奥州藤原氏の元へ身を寄せますが、異母兄の源頼朝が打倒平家の挙兵をしたという噂を聞き、頼朝の下に駆けつけ義朝は戦場の大前線で大活躍をすることになります。

源義朝の死により確かに源氏は没落しますが、源義朝の息子らは父の想像を遥かに超越する勢いで躍進を遂げます。あの世の源義朝も泣いて喜んだはずです。

源義朝のまとめ

源義朝の人生は非常に波乱万丈な人生でした。結果だけ見れば、父や兄弟を殺した挙句、結局、平治の乱で殺されてしまい、源氏を没落させた凄惨な一生だった・・・と言えなくもないですが、息子達の目覚ましい活躍により亡くなった源義朝も報われることになりました。

源義朝は保元の乱で父を自らの手で斬首して以来、「父親殺しの義朝」なんて言われていたようで、おそらく相当心を痛めていたのでは無いか?と私は思っています。当然、義朝だって父親を殺したいはずがありません。(保元の乱の際、義朝は父の助命を懇願していました。)しかし、時代がそれを許しませんでした。

そんな過酷な時代を生き抜き、無念の死を遂げたのが源義朝だったのです。ちなみに、息子の源頼朝は、親族同士の争いに明け暮れていた父の義朝を見ているせいか、人間関係には非常に敏感な男だったようです。源平合戦が終わった後、自由勝手に振る舞う義経を頼朝が許さずに自害に追い込んだのも、義経の軽率な振る舞いが一族を巻き込んだ大内紛になりかねないからだ・・・とされています。源義朝の生涯は、息子の源頼朝の人格形成にも大きな影響を与えていると言えそうです。

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