清少納言の枕草子を読むなら藤原定子のことを絶対に知っておけ!

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前回の記事(長徳の変とは?わかりやすく解説【花山法皇乱闘事件。藤原伊周の敗北と藤原道長の登場】)で少しだけ清少納言に触れたので、今回は枕草子の話をしたいと思います。

 

※紫式部の話もしようかと思いましたが、うまく整理できなさそうなのでやめてしまいました(汗。すみません。

 

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枕草子は「をかし」の世界観

平安時代の2大文学作品といえば紫式部の「源氏物語」清少納言の「枕草子」

 

源氏物語は「もののあはれ」、枕草子は「をかし」の文学と言われています。

 

wikipediaで調べると、「をかし」はこんな風に書かれています。

 

平安時代の王朝文学において、「もののあはれ」と共に重要な文学的・美的理念の一つ。「もののあはれ」がしみじみとした情緒美を表すのに対し、「をかし」は明るい知性的な美と位置づけられる。

「をかし」は、景物を感覚的に捉え、主知的・客観的に表現する傾向を持ち、それゆえに鑑賞・批評の言葉として用いられる。この美的理念に基づき記されたのが『枕草子』である。そのため『源氏物語』を「もののあはれ」の文学と呼び、一方『枕草子』を「をかし」の文学と呼ぶ。しかしこの理念は『枕草子』以外の平安文学ではあまり用いられず、それゆえ「をかし」の文学理念は、『枕草子』固有になっている。

(出典:wikipedia「をかし」)

 

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清少納言の光と闇がよくわかる枕草子

偉そうにwikipediaを引用しときながらこんなことを言うとあれですが、正直に言うと、私には「をかし」や「もののあはれ」ことはよくわかりません。しかし、次回の記事で紹介する予定の枕草子「大進生昌が家に、〜」の段は、個人的に読んでいてとても面白く、興味深いものでした。

 

簡潔でユーモアに富んだ文章なのに、よーく読んでみるとユーモアとはかけ離れた清少納言の複雑な心境が見えてくるからです。機知に富んだ文面の中に存在する2面性・ギャップというのが個人的にとても面白いと感じました。

 

この記事では、枕草子を読む前に絶対に知っておいてほしい藤原定子という人物の話をします。

 

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藤原定子を理解する

枕草子を書いた清少納言は、藤原定子という当時の天皇である一条天皇の妃の女官でした。なので、枕草子を楽しむためにはどうしても藤原定子のことを知っておく必要があります。

強大な権力を持った祖父の藤原兼家

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以下、いろんな人物が登場しますので、困った時は上の図を参考にしてください。重要人物は赤枠で囲ってます。(藤原彰子は重要人物ですが、ここでは登場しません。)

 

藤原定子のおじいちゃんは藤原兼家という強大な権力を持つ男でした。

 

藤原兼家は、天皇の外戚として権勢を振るうため、当時の天皇(花山天皇)を策略により追放し、自分と血縁関係のある一条天皇を即位させました。これを寛和の変と言います。986年の出来事です。

 

兼家の人生は、権力争いの連続であり、なかなか波乱万丈な人生でした。運と実力によりその権力争いに次々と勝利。最後は、寛和の変により孫の一条天皇を無理やり即位させたことで、強大な権力を手に入れることができました。

 

藤原定子は、そんな強大な権力を兼家から引き継いだ藤原道隆という人物の娘になります。定子の家は超裕福で由緒ある家庭だったということです。

 

兼家については、

藤原道長の父、藤原兼家が凄い!【円融天皇と藤原氏の権力】

寛和の変とは?花山天皇の出家と一条天皇即位【藤原兼家の大勝負】

 

という記事で詳しく解説していますので、気になる方はどうぞご覧ください。ちなみに、個人的に藤原兼家のことは結構好きで、あえてこの記事でも紹介してみます。

 

権力を引き継いだ父、藤原道隆

990年、強大な権力を誇った藤原兼家が亡くなり、次の権力は息子へと引き継がれていきます。兼家には複数の息子がいました。あの有名な藤原道長も兼家の息子の一人です。そして権力は長男だった藤原道隆が引き継ぐことになりました。

 

 

同じく990年、権力を引き継いだ道隆は、娘である藤原定子を一条天皇の正妻とします。天皇の正妻ですから、定子には多くの女官が付くことになります。そんな女官の一人が清少納言でした。父道隆の後ろ盾もあって、定子は優雅な朝廷生活を送ることになります。定子は和歌や漢詩などの文化面で才能があったようで、枕草子ではそんな定子の博識で機知に富んだ様子が多く描かれています。

 

そんな中、995年に定子の父である道隆が亡くなってしまい、再び「次期権力者は誰だ!?」という問題が起こります。

 

この辺りの話は中関白藤原道隆・伊周の没落と七日関白の藤原道兼をわかりやすく解説するという記事で解説しているので、知りたい方はこちらの記事をご覧ください。

 

定子の兄弟、藤原伊周の没落 ー長徳の変ー

道隆死後、道隆の息子(つまり、定子の兄弟!)の藤原伊周と藤原道長(伊周から見ると叔父に当たります)が対立することになります。

 

結果、藤原道長が勝利。伊周は左遷させられることになります。これら一連の出来事を長徳の変と言います。詳しく知りたい方は長徳の変とは?わかりやすく解説【花山法皇乱闘事件。藤原伊周の敗北と藤原道長の登場】をご覧ください!

 

 

伊周の敗北は定子の運命にも決定的な影響を与えました。道隆亡き後の定子にとって、唯一の後ろ盾は兄弟の伊周でした。

 

出家と出産

伊周の左遷は定子にも暗い影を落とします。伊周の左遷が決まったのは996年4月。その翌月、朝廷内で居場所を失った定子は失意の中、出家します。996年5月の出来事でした。

 

不幸な出来事はこれだけではありません。996年は、藤原定子とって超絶不幸な一年でした。失意の中出家したその翌月、996年6月8日の深夜、定子の自宅が全焼してしまいます。自然火なのか放火なのかはわかりません。長徳の変での伊周の悪行を踏まえれば悪意の放火でも不思議ではないのでは?と個人的には思っています。

 

定子は、平惟仲(たいらのこれなか)という人物の元へ避難することになります。

 

 

出家し、家を失った定子ですが、実は妊娠していました。一条天皇の子をお腹に抱えていたのです。そして、996年12月、女の子を出産します。996年は、定子にとって激動の一年でした。

 

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一条天皇の愛

この出産に一条天皇は喜びました。しかし、定子は出家をしていたので、内裏(天皇の住む場所)に入ることができず、一条天皇は初めて生まれた我が子と会うことができませんでした。出家とは、家を捨て仏教の道へ入ることを言います。当時は、家を捨てた人を神聖なる内裏へ入れることはタブーと考えられていたようです。

 

 

 

997年6月、定子は再び参内(さんだい。内裏へ参上すること)することになります。繰り返しですが、出家者が参内することは一般的にタブーと考えられていました。それでも定子が参内できたのは、定子と我が子に会いたいと強く望む一条天皇の想いがありました。

 

定子は、天皇の妃で、中宮(ちゅうぐう)と呼ばれていました。通常であれば中宮の住居は、内裏の中の天皇と近い場所であるのが一般的でしたが、この時の定子の住む場所は、内裏からとても離れた場所でお世辞にも立派な場所とは言えなかったようです。ちなみにこれにはちゃんとした理由があって、定子の参内に多くの人が批判的であり、それに配慮した結果です。

 

 

定子の参内には多くの批判があり、一条天皇もふら〜っと定子や息子に会いに行けるような雰囲気ではなく、会いにいくのは夜中、帰りは朝という苦心ぶりでした。定子が参内する初日も、多くの批判が想定されていたため一条天皇はあえて内裏から外出し、天皇のいない間にこっそりと定子を参内させる徹底ぶりです。

 

 

出家した身でありながら参内した定子への強い批判があったことと、それでも定子を近くに置きたいと願う一条天皇の強い愛がこれらのエピソードから伝わってきます。

 

 

参内とは一般的に「内裏へ行くこと」を意味しますが、定子の場合、これまで説明した事情により内裏の外に住んでおり、二人が会うのも内裏の外だったので厳密には正しくないような気がしますが、参内以外の言葉が思い浮かばなかったので参内と表記しています。正しい表記があれば教えてほしいです(汗

 

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枕草子「大進生昌が家に、〜」の段を読む

一条天皇の手厚い配慮で、再び宮中で生活することになった定子ですが、999年、再び一条天皇の子を妊娠します。第2子の出産です。

 

 

当時、妊娠した者は宮内には入れないのが決まり事でした。その理由は、私にはわかりません・・・が、源氏物語の中に「出産は穢れである」というような内容を読んだことがあります。おそらく、出産とは時に死を伴うことから神聖なる宮内ではご法度とされたのでしょう。

 

 

こうして、また宮内を出て、出産するまでの間、昔にお世話になった平惟仲の弟である平生昌(たいらのなりまさ)の元で生活することになりました。

 

その時の様子を描いたのが「大進生昌が家に、〜」の段です。

 

次回は、「大進生昌が家に、〜」の内容を解説したいと思います。この記事で定子のことをした上で読んでみると、楽しめると思います。枕草子の真骨頂が味わえる・・・!と勝手に思っています。

【次回】

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