2015年は高野山開創1200年!弘法大師空海のことを知って高野山に行こう!その3

最後に、弘法大師空海の生涯でも振り返って終わろうと思います。

スポンサーリンク

 空海、唐へ留学

唐は、今でいう中国です。空海は唐へ留学することで密教を習得しました。

804年、空海が31歳のときでした。

なんで留学?いきなりすぎてわからない(汗)。そこで、当時の日本の情勢を見ていきます。

仏教は国を守ってくれる

現在では仏教は個人や家が信仰するものですが、当時の仏教は国策でした。
当時というのは800年頃のお話です。ちょうど桓武天皇が平安京に都を移した時期ですね。

国策というのは、具体的には防衛のことです。当時の日本は、仏の力を借りて国を守ろうと考えていたのです。

政教分離が当たり前の現在ではなかなか想像しにくいですね。ちなみに、仏教で守られている国を鎮護国家って言ったりします。

ところで・・・

Q:仏教で国を守るって何をするの?

A:お経を読む

お経を読むだけで国を守れるわけがないって?

それは今だから言える話。当時の日本では、当たり前だったんです。こーゆところが歴史の面白いところですね。

国が求めていたのは、読経によって得られる呪術的な力でした。
お経を読んだら、急に病が治ったとか。お経を読んだら、元気な子どもが生まれたとか。
神がかり的な力を借りようとしていたわけです。

ただ読むだけじゃ駄目なんですね。

というわけで、当時の天皇、桓武天皇は唐の最新の仏教を僧侶に学んでもらって、どんどん呪術的な力を得たいと考えていました。

「馬鹿だなぁ」とか思うかもしれませんが、今から1000年後の日本人が私たちの生活を知ったら同じことを思うかもしれませんね。

そんなこんなで、空海もその留学生として選ばれることになったのでした。

虚しく往きて実ちて帰る

唐では、恵果という人の弟子として密教の習得に励みました。
そして、806年に唐から帰国。804年から留学していたので2年間の留学でした。

「虚しく往きて実ちて帰る」は空海が唐から帰ってきたときの言葉です。
よほど充実した留学だったのでしょう。

帰国後、空海の人生はフィーバーモードを迎えます。

高野山開創

その2で真言密教の修業の話をしましたが、このようなストイックな姿勢が、呪術的であり鎮護国家に相応しいものに映ったため、空海は次第に国のお偉い方々に重宝されるようになっていきます。

そして遂に816年,修業の場として高野山を天皇(当時は嵯峨天皇)から賜るのです。

ちょっと待て。今年2015年が高野山開創1200周年なら815年でないと変じゃないか?

自信がないのですが、恐らく、正式に高野山を賜る前に、既に空海は高野山を開く準備をしていたためだと思います。

さらに、823年、同じく嵯峨天皇から東寺を賜りました。
ちなみに、東寺は私の大好きな寺。

そして、835年、弘法大師空海は60歳でこの世を後にしたのです。

最澄と空海

最後に、最澄と空海の話を少しだけ。

対照的な2人の人生

804年に空海が唐へ留学したという話をしました。そのとき、実は最澄も同じく留学をしています。空海の31歳に対して、最澄は38歳で空海より少し年上です。

留学前の空海が無名の僧侶だったのに対して、最澄は、当時の天皇、桓武天皇の期待を受け、留学へと赴きました。当時は仏教に呪術的な力が求められていたことを先ほど説明しました。最澄も、桓武天皇からそのような力を求められていたのです。

しかし、最澄が留学で求めていたものは、あくまで天台宗における教理の探求でした。そのため最澄は密教については不完全な理解のまま、日本へ戻ってきてしまいました。

最澄は確かに、教理について深く学んだことでしょう。しかし、天皇が求めていたのは仏教の理論よりも、密教のもつ呪術力にありました。

ここから密教を極めた空海と教理を探求する最澄に差が出始めてきます。

空海の真言密教が頭角を現すにつれ、最澄は焦りました。年下の空海にお願いして密教に関する書物を借りるような状況だったようです。

さらに806年に最澄と交友のあった桓武天皇が亡くなり、その後平城天皇、嵯峨天皇と天皇が変わり、嵯峨天皇は空海を重宝するようになっていくのです。

2年間の留学で二人の立場はここまで変わってしまいました。まさに諸行無常

ひとつ知っていただきたいのは、当時の仏教は鎮護国家ありきの仏教ということです。
国を守るための役に立たないなら、それがいくら素晴らしい理論であっても受け入れられることはありませんでした。今とは全く違う宗教観ですね。

信念を貫く最澄、寛容な空海

新仏教を持ち込んだ最澄と空海。
ここに新しい問題があります。既存の宗派とどう関わっていくかということです。

最澄と空海はここでも対照的な一面を見せます。
既存の宗派とは主に南都六宗と呼ばれる南都(旧平城京)の宗派でした。
なぜ平安京にいないのか?すみませんが、ここでは割愛します。(別に記事として書くかもしれません。)

最澄は、南都六宗の1つの法相宗と壮絶な教理論争を行います。
自分の信念を貫く最澄は、他宗派との妥協を許さなかったのです。

一方空海は、真言宗と他宗派との共通点を見つけ、友好的な関係を模索していきます。
とは言っても、空海は、他宗派と友好的関係を築いた後も、真言密教が一番優れた教えであるという考えは最後まで曲げていません。あくまで、真言宗の教えで他派の教えを包含していこうと考えていました。

まとめ

当時の仏教は、国策として鎮護国家のために用いられました。空海がここまで有名になったのも、国のニーズと空海の思想が合致したためとも言えるでしょう。

とはいえ、空海は時代を超えて今なお魅力的な存在として、信仰され親しまれています。

最澄の話は、かなり簡略化させていただきましたが、やはり最澄抜きに空海は語れない気がするので、別の機会に記事でも書こうかと思っています。

(追記)最澄の記事を書きました!

  1. 最澄「天台宗マスターに俺はなる」ドン!【最澄と空海、平安時代の偉人を知る】
  2. 天台宗って?真言宗って?わかりやすく教えます!【空海と最澄、2人の偉人を知る】
  3. 最澄「法相宗は雑魚」徳一「天台宗(笑)」【最澄と空海、平安時代の偉人を知る】
スポンサーリンク

こちらの記事もオススメです

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする