日本の税の歴史!墾田永年私財法と班田収授法をわかりやすく

-shared-img-thumb-PPP_tesagyoudenaewoueru_TP_V

前回(平安時代の農民が税金で苦しんだ理由とは【鬼畜すぎるその手口】)は、租(稲の収穫高の一定割(おおむね3%)を収める税)に改悪が重ねられた結果、民が苦しんだ・・・という話でした。

今回は、租が徴収されるまでのおおまかな流れを見ていきます。

スポンサーリンク

班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)

租は、稲を収める税です。当然、民が農地を持っていなければ、稲を作ることはできません。

というわけで、民にちゃんと税(稲)を納めてもらう大前提として、民に適切に土地を分け与える必要がありました。そこで考えられたのが、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)という法律です。

歴史上に最初に班田収授の話が現れるのは、大化の改新の際に発表された「改新の詔」とされています。しかし、これには異論もあって、実際に班田収授が実施された具体的な時期は定かではありません。しかし、少なくとも700年よりも前には、班田収授の仕組みは出来上がっていました。

【大化の改新について知りたい方はこちら記事どうぞ】

大化の改新(乙巳の変)の目的と理由をわかりやすく【中臣鎌足と中大兄皇子の出会い】1/2
聖徳太子亡き後、時代は大きな転換期を迎えます。有名な大化の改新です。今日では、乙巳(いっし)の変と言うのが主流なようです。 ...

大化の改新(乙巳の変)の目的と理由をわかりやすく【蘇我入鹿と蘇我蝦夷】2/2
前置きはありません。遂に乙巳の変です。教科書には載っていない乙巳の変の詳細をぜひご覧ください。 スパイ的存在の蘇我倉山田石川麻呂 ...

【改新の詔について知りたい方はこちらの記事をどうぞ】

中大兄皇子と中臣鎌足は大化の改新で何をした?【改新の詔】2/2
乙巳の変により邪魔者蘇我氏を排除した中臣鎌足と中大兄皇子。 孝徳天皇主導の下、聖徳太子の時代から続く隋に負けない新しい...

ちなみに、班田収授法は日本のオリジナルではありません。当時の大国、唐の制度を真似たものになります。

班田収授法には、人・土地を管理する戸籍が必要。

班田収授法を実行するときに、最も重要なのが各地域の人と土地の把握です。これがわからないと誰にどこの土地をどれだけ分配すれば良いのかわからないからです。

そこで、人や土地の状況を把握するため、日本で初めて全国レベルで作成された戸籍が670年に作られた庚午年籍(こうごねんじゃく)です。

先ほど、班田収授法はいつできたか?具体的な時期はわからないと言いましたが、この庚午年籍が出来上がった頃には班田収授法は運用されていたのではないかと思います。

戸籍調査に基づく家族構成・年齢などから、国は「25才の男ならこれだけの田地を与えよう」という感じで田地を分け与えました。そして、この基準は6年に一回見直すこととされていました。

戸籍と班田収授法は、どちらも民からしっかりと税金を徴収するための制度であり、2つ揃って初めて機能する制度と言えます。

学校の教科書を読んでいるとあまり実感がないですが、田んぼと戸籍の話をしているように見えて、実は税の歴史を学んでいることになります。

墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)

班田収授法が運用されてからしばらく経つと、次第に、班田収授法の欠点が浮き彫りとなってきました。

これに対応するために制定されたのが、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)です。743年に制定されました。

班田収授法の欠点「やる気がおきない」

班田収授法では、与えられた田地はその人が亡くなると国に返さなければなりません。

これでは、いくら頑張って土地を改良して肥沃な土地にしても、荒れ地を開墾してもすべて国のものになってしまいます。

そうです。班田収授法では、田地を分配することはできても、新たに土地を増やすことは制度的に不可能でした。土地を開墾する民にメリットが何もないからです。やる気が起こるはずがない。

一方、国は国で税収を増やすため土地を増やしたいという思惑がありました。

そこでできた制度が、723年に制定された三世一身法(さんぜいっしんのほう)。土地を開墾してくれたら3世代の間、その土地を自由に使ってよいよ~という制度。でも、これは全然ダメでした。3代経ったら国のものになる土地を貰って喜ぶ人などほとんどいないでしょう。開墾意欲を高めるには私有の安定が必要です。

というわけで、国はケチな制度をやめ、ついに太っ腹な制度を作り出します。それが墾田永年私財法。開墾した土地は、それに見合った税さえ納めてくれたら開墾した者が永遠に所有してよいとする制度です。現代に生きる我々にもなんとく馴染む考え方ですね。

墾田永年私財法は、大きなビジネスチャンス!?

墾田永年私財法は、それまでの土地の在り方に大改革をもたらしました。(国が意図していたかは別として)

大量の私有地を手にしようと多くの者が土地を開墾し始めます。私有地をたくさん持っていれば、安定した収穫が見込めますし、余剰分は売ることができます。私有地を大量に持つということは裕福になるということを意味しました。

墾田永年私財法の制定は、ある意味でビックビジネスのチャンスだったわけです。

私有地でも、税金はかかる -輸租田(ゆそでん)-

班田収授法に基づいて与えられた田地(口分田と言います。)から採れた稲を納める税はです。

そして、墾田永年私財法により手に入れた私有地も、国から与えられた田地(口分田)と区別して輸租田(ゆそでん)と呼ばれ、課税対象となっていきます。というか、これが国の目的そのものというわけです。

国としては当初の目的が達成され、税収も増えたため墾田永年私財法はひとまず成功した!と思ったはずです。

しかし、墾田永年私財法は、国の意図に関係なく、日本の税制や庶民の暮らしを大きく変えてしまいました。

貧富の差の拡大

墾田永年私財法により多くの土地を得ることができた者のほとんどが、貴族や大寺院(聖武天皇が愛する東大寺や藤原氏の氏寺である興福寺が特にすごい)ばかりでした。初期投資がたくさんできるお金持ちが圧倒的有利だったわけです。

このように、墾田永年私財法は、貧富の差を拡大させてしまいます

税を納めらず逃げ出す農民が増え、田地を持つことを放棄して貴族に雇われることを選ぶ農民も増えてしまいます。そうするとどうなるでしょう。国の税収が減ってしまいます。

こうして、農民や国は困ったことになってしまいますが、喜んでいる人たちもいました。それが、貴族や寺院などの裕福層の人々です。

国としても、これに危機感を覚え、何度か開墾停止命令を出したことがありますが、大きな流れを変えることはできませんでした。

新時代の幕開け -荘園制への移行-

墾田永年私財法の制定の後、日本の税制は激動の時代を迎え、その激動の時代の中で武士が誕生します。というか、税の話はすべて武士の話をするために連載しています。日本といえば、武士、侍!やはり、武士についてしっかり語りたいのです!

次回は、墾田永年私財法により確立した私有地が、荘園という新しい土地の仕組みに変貌していく様子を見ていきます。

次:荘園制度を超わかりやすく解説【浮浪人と律令制崩壊】1/2

前:平安時代の農民が税金で苦しんだ理由とは【鬼畜すぎるその手口】

楽しく学ぶわかりやすい日本の歴史講座一覧へ戻る

スポンサーリンク

こちらの記事もオススメです

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする