興福寺の見所!国宝館の仏頭の豆知識をわかりやすく【京都観光】

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【↑興福寺の仏頭】

興福寺と言えば、おそらく一番有名なのは阿修羅像。と思ったので、興福寺の見所!国宝館の阿修羅像の豆知識をわかりやすくという記事で阿修羅像の紹介をしています。

しかし、興福寺にはもう1つ面白い国宝があります。それが、仏頭です。壊れた仏像で頭だけしか残っていないにもかかわらず、国宝に指定されているとても変わった仏像が興福寺の仏頭なんです。

今回は、そんな興福寺の仏頭の話をしようと思います。興福寺へ観光へ行かれる方は、ぜひその前に読んでいただけると嬉しいです。

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頭だけなのに国宝級になれた理由とは?

繰り返しですが、興福寺にある仏頭は、壊れた仏像の一部。それなのに、国宝に指定されています。普通は、保存状態が良い仏像の方が評価が高いはずなのに。

その秘密は、仏像が作られた時代にあります。

白鳳時代の貴重な仏像

興福寺に残る仏像の頭は、685年、飛鳥時代に制作されました。

この頃は、聖徳太子を筆頭に多くの人物が仏教を強く信仰し始めた時代。少し詳しく説明します。

仏教の本格的に日本に広まったのは、ざっくりと西暦600年前後。そして日本に仏教が広まった後、本格的な信仰が始まったのがちょうど興福寺の仏頭が制作された時代。この時代の文化は、日本に伝来したての仏教の影響を強く受けた独特なものでした。(伝わりたての仏教なので朝鮮や中国などの影響が色濃く反映されていた。)

その独特な文化があった時代のことを、西暦とか年号とは別に白鳳時代と呼びます。ざっくりと650年~700年ぐらいを指します。

白鳳時代の仏像は、現存している仏像もありますが、残念ながら誰が・いつ制作したのか?という記録がしっかりと残っている仏像は多くありません。白鳳時代に作られたと思われる壊れていない仏像は多くありますが、ほとんどは作られた正確な記録が残っておらず、仏像の様式や素材などから判明したものです。

そんな白鳳時代の仏像で、いつ作られたのかしっかりと記録が残っている貴重な仏像が興福寺の仏頭なんですね。

そのせいなのか、興福寺の仏頭は白鳳文化の代表作として紹介されることも多いです。

次は、興福寺の仏頭が制作された理由を説明します。こっちの話のほうが面白いです。

 蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)

興福寺の仏頭の作った(提案した)のは、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)というちょっと変わった名前の人物。

この人物、マイナーキャラですが、大化の改新(乙巳の変)で大活躍した凄い人物です。

大化の改新(乙巳の変)については、

なぜ大化の改新(乙巳の変)は起こったのか。その目的と内容とは。1/2

大化の改新(乙巳の変)はなぜ起こったのか。その目的と内容とは。2/2

で詳しく解説していますので、気になる方はどうぞ!(興福寺の仏頭を作った蘇我倉山田石川麻呂も登場します)

大化の改新(乙巳の変)での活躍

大化の改新(乙巳の変)については、ここでも簡単に説明をします。繰り返しですが、詳しくは上の2つの記事を!

大化の改新(乙巳の変)とは、蘇我氏の腐った政治を刷新するために、中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我倉山田石川麻呂らによって蘇我蝦夷・入鹿を殺害した事件を言います。

蘇我倉山田石川麻呂は、殺害された蘇我蝦夷・入鹿の従兄弟(いとこ)で血縁関係がありましたが、蘇我蝦夷・入鹿のことを嫌っていたため、中大兄皇子に誘われ蝦夷・入鹿殺害計画に加担することになったのです。

蘇我倉山田石川麻呂は、強大な権力を持つ蘇我蝦夷・入鹿と血縁関係にあるため、政治の世界でも一定程度の地位を持つ男で、蘇我氏や朝廷内の情報も持っているため、中大兄皇子・中臣鎌足らにとっては大変貴重な存在でした。

蘇我倉山田石川麻呂なくして大化の改新(乙巳の変)は成功しなかったはずです。それほどに重要なキャラだったのです。マイナーだけど!

こうして、中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我倉山田石川麻呂の3人の力で蘇我蝦夷・入鹿を倒し、腐敗した政治を刷新しようとしました。

この3人、大化の改新後も良好な関係が続くと思われましたが、蘇我倉山田石川麻呂は裏切られ殺されてしまいます。

蘇我倉山田石川麻呂の悲劇

細かい話は省略しますが、大化の改新(乙巳の変)が起こったのは645年、そしてその4年後に蘇我倉山田石川麻呂は殺害されます。

蘇我倉山田石川麻呂は、中大兄皇子・中臣鎌足に裏切られ適当な言いがかりをつけられ殺されます。

中大兄皇子としては蘇我倉山田石川麻呂は、大化の改新(乙巳の変)の時には利用価値はがある人物だったけれども、それが終わってみれば第2の蘇我蝦夷・入鹿になりうる危険な存在にしかならなかったのです。

蘇我倉山田石川麻呂の殺害については、天武天皇のライバル天智天皇、政争に強すぎワロタ【陰謀多すぎ】という記事で詳しく解説しています。

興福寺仏頭は、蘇我倉山田石川麻呂の死後完成した

649年、蘇我倉山田石川麻呂は殺されてしまうのですが、興福寺の仏頭が完成したのは685年。蘇我倉山田石川麻呂は自分が作り始めた仏像を見ることもなく亡くなってしまい、亡くなってから約25年にようやく仏像が完成します。

山田寺から興福寺へ -南都焼き討ちの傷跡-

興福寺の仏頭は、当初は山田寺という場所に安置されていました。山田寺は、現代で言う奈良市桜井市にあります。今では建物が少し残っているだけで、お寺としては機能していないようです。

1187年、この山田寺にあった仏像を興福寺の僧たちが奪ってしまいます。何の理由もないのに奪うわけはもちろんなくて、奪うにはそれなりの理由がありました。

平重盛の南都焼き討ち

1180年、興福寺や東大寺は平重盛(平清盛の息子)の焼き討ちにより多くの寺院や仏像を消失することになります。これは、「南都焼き討ち事件」などと呼ばれる有名な出来事です。

興福寺や東大寺は、広大な土地と多く人を掌握する強大な力を持つ寺院であり、朝廷内で力を振るうようになった平家の人たちの圧力にも毅然として反対運動をしていました。平家からみれば興福寺や東大寺は、邪魔者だったわけです。

この邪魔者を打とうと、挙兵したのが南都焼き討ち事件です。

興福寺の再興 -寺院は完成したけど仏像がない!-

1180年の南都焼き討ち後、興福寺はすぐに再建に取り組み始めます。興福寺は、平安時代に強大な権力を持った藤原氏のお寺なので再建も早い早い。寺院はすぐに完成したのですが、その寺院に安置した薬師如来像がなかなか出来上がりません。

そこで、興福寺の僧たちは、別の寺院から薬師如来像を奪おう!と考えました。興福寺の僧は、僧兵とも呼ばれ、兵士として戦うこともしばしばでした。なので、力ずくで奪うという発想も不思議な話ではないのです。

そして、不幸にも目を付けられたのが山田寺というわけです。

以上のように、興福寺の仏頭は、山田寺から奪われた仏像であり、薬師如来像ということになります。

※「薬師如来像」って何?という方は、京都観光の前に知っておきたい仏像の豆知識をご覧ください。4つの如来(釈迦・阿弥陀・薬師・大日)について解説しています。

落雷で頭だけに

1411年、室町時代です。落雷で薬師如来像を安置していた東金堂という建物が火災の被害を受けます。

この時に、山田寺から持ってきた薬師如来像も焼けてしまいます。残ったのは、現存する興福寺の仏頭だけでした。

1200年代にも一度火災があって、その時は火災をまぬがれることができましたが、1411年のときはダメだったようです。

その後、興福寺は再び立て直され、頭だけになった仏像に代わる新しい薬師如来像も作られました。仏頭は、新しく作られた薬師如来像の台座の下に埋め込まれることになりました。

忘れ去られる興福寺仏頭

その後、時代は室町時代~昭和時代と流れるうちに、台座の下に仏頭が埋め込まれていることが人々の間から忘れ去られていきます。

そして、1937年(昭和12年)に台座の下から仏頭が発見されました。こうして500年の月日を経てようやく興福寺の仏頭は再び人々の目の前に姿を現すこととなったのです。

波乱万丈な歴史を歩んできた興福寺仏頭

以上のように、興福寺に残る仏頭はその頭だけの姿からもわかるように波乱万丈の歴史を歩んできました。

京都観光で興福寺に行かれる方は、その前に仏頭の歴史を知っておくと、きっと観光がもっと楽しめると思います。

このブログでは、興福寺については他にも紹介をしているので、気になる方はぜひご覧ください。

東大寺に来たら興福寺も見なきゃ損だぞ【奈良公園と興福寺の秘密】

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