平清盛はなぜ太上大臣になった?その経過は?わかりやすく紹介

今回は、あの有名な平清盛が1167年に太政大臣にまで昇進するまでの流れを紹介したいと思います。

当時の朝廷は上皇・天皇・平清盛という三者の思惑が渦巻く、とても複雑な人間関係が続いていました。そんな複雑な朝廷の中で、平清盛がどのようにして朝廷最高官位である「太政大臣」になったのかを見てみたいと思います。

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太政大臣になる前の平清盛

平清盛が太政大臣になる経過を理解するには、平氏台頭の直接的なきっかけとなった平治の乱のことを知っておかねばなりません。平治の乱については以下の記事で紹介していますので、まずはご一読いただくと良いかもしれません。

平治の乱は、対立関係が超複雑であることで有名な1159年に起こった内乱です。この3年前に起こった保元の乱にも複雑な対立関係がありまし...

平治の乱により源氏が没落したことで、朝廷内で軍事を担える一族はもはや平氏しか存在しなくなります。当時は「天皇が政治をするか?それとも上皇が政治をするか?」で揉めていましたが、いずれの場合でも強訴や所領問題に対応するためには武士の力が必須であり、平氏は天皇・上皇いずれにとっても必要不可欠な存在となります。

そんな引く手数多な自らの境遇を巧みに利用し、朝廷内での影響力を強めていったのが平清盛でした。

平清盛の処世術

平治の乱の後、朝廷内では政治の主導権を巡って、後白河上皇と二条天皇が冷戦関係にありました。そんな中、平清盛はどちらにも極端に加担することはせず、中立の立場でお互いに良い顔をします。

平清盛は自ら働きを安売りせず、上皇・天皇両者から巧みに高報酬を引っ張り出そうと考えたのです。保元の乱以前までは天皇や貴族らの言いなりに甘んじていた武士ですが、保元の乱・平治の乱を通じて武士の地位は著しく上昇していたことがこの平清盛の態度からわかります。

さらに平家は武力だけでなく、領地経営や貿易などによって莫大な富も築き上げていました。その富もまた、天皇・上皇が喉から手が出るほど欲したものだったのです。

平清盛の処世術を垣間見ることができるのが、現在も京都で観光地になっている1001体の千手観音像で有名な三十三間堂である・・・と個人的に考えています。

三十三間堂は平清盛が後白河上皇のために建立した寺院です。そして、その建立の背景には複雑な政治事情がありました。会話風でざっくりと紹介してみます。

二条天皇「後白河上皇が自らの息子を天皇にしようとしている!?そこまで露骨に反抗するのなら俺にも考えがあるぞ。後白河上皇が院政をできぬようにしてやるからな」

(後白河上皇に親しい人が朝廷内から次々と追放され、後白河上皇は院政が行えなくなる)

二条天皇「後白河上皇もこれで懲りただろう。それにしても平清盛は、私に非常によくしてくれている。後白河上皇の件でもサポートをしてくれた。これで俺の治世は安泰だ」

平清盛「うーん、二条天皇を助けてあげたけど、このままじゃ二条天皇は安心しきってダメだなぁ。ちょっと刺激を与えてやるかwww」

後白河上皇「院政ができなくなったけど、仏教にハマってるから別に問題ないし。そんなことよりも、自分専用のお寺が欲しいよなぁ・・・。」

平清盛「後白河上皇殿のその望み、お叶えいたしましょう。」

(1165年、平清盛らの財力で三十三間堂を建立)

二条天皇「えっ!?平清盛って俺を支持してくれてるんじゃないの?(汗)もし、平清盛が後白河上皇を支持するようになると再び院政が始まり、自分の地位が危うくなる・・・」

二条天皇「よし!清盛の嫡男である重盛を参議にしてあげよう!!だから、後白河上皇なんかよりも俺を支持してください本当にお願いします。」

平清盛「(よしよし、計画どおり)」(ニヤリ)

かなり簡潔に書いていますが、こんな感じで平清盛や平家一族は次々と朝廷の要職を占め、多くの国を所領に持つようになります。平清盛が太政大臣になれたのも、このような平清盛の巧みな処世術がありました。

三十三間堂を建立してもらった後白河上皇はこれを喜び、息子の二条天皇にも見せようとします。しかし、二条天皇はこれを拒み、後白河上皇は大いに憤慨したと言います。二条天皇と後白河上皇の関係が微妙だった上に、上記のような政治的駆け引きもあった以上、二条天皇が後白河上皇のために建立された三十三間堂を見たくない気持ちもわからなくはありません。

憲仁親王(高倉天皇)と平清盛

【参考までに系図を描いてみました】

平清盛は二条天皇と後白河上皇の間で巧みに立ち振る舞っていましたが、どちらかと言えば二条天皇に近い立場に立っていました。平清盛は、後白河上皇の性格や言動に強い不安を持っており、後白河上皇とは一定の距離を保ちます。

ところが、平清盛の義理の妹だった平滋子がその美貌から後白河上皇の寵愛を受けるようになり、なんと子供まで産んでしまいます。後白河上皇と平滋子との間に生まれた子供は、憲仁(のりひと)親王と呼ばれ、後に高倉天皇として即位する人物です。平滋子は平氏一族として初めて皇族の男子を産んだ人物として有名です。

おそらく高倉天皇の登場は、平清盛が意図したことではないでしょう。しかし、平氏の血が通う憲仁親王の存在を平清盛が無視できるわけがありません。平清盛がどう考えていたかはわかりませんが、平清盛は否が応でも後白河上皇との距離を縮めざるを得なくなってゆきます。

二条天皇の死

朝廷では、後白河上皇と平清盛の距離をさらに近づける出来事が起こります。1165年、二条天皇が病で倒れ、わずか0歳の六条天皇に譲位したのです。これは父の後白河上皇を嫌う二条天皇が、後白河上皇の子である憲仁親王が即位するのを防ぐために苦肉の策でした。

六条天皇は生後7ヶ月ほどの乳飲み子のまま即位し、歴代最年少の天皇即位の記録を残しています。六条天皇の即位は、父の後白河上皇に負けまいと抗う二条天皇の必死の策だったことがわかります。

しかし、二条天皇の想いが実現することはなく、二条天皇の死により、政治から遠ざけられていた後白河上皇が再び息を吹き返すこととなります。

事ここに至り、平清盛は後白河上皇と密な関係を持つようになります。密と言っても2人が親しい関係になったわけではありません。後白河上皇が再び政治の世界に復活したことで、様々な駆け引きの下、政治的関係を持つようになったということです。

そんな両者の最初の大きなイベントが憲仁親王の立太子でした。

平清盛と後白河上皇

二条天皇が没し、乳飲み子の六条天皇が即位したのを機に後白河上皇が攻勢を仕掛けます。寵愛する平滋子との間に生まれた憲仁親王を皇太子にしたのです。平清盛が太政大臣になる前年(1166年)の出来事です。

平清盛は義理の妹(妻の妹)である平滋子を通じ、後白河上皇と密接な関係を持つようになります。そして、この頃から清盛は朝廷内で著しい出世をするようになります。

これは、後白河上皇と平清盛の一種の同盟のようなもので「後白河上皇が平氏の地位を高める代わりに、平清盛率いる平氏は財力や武力を用いて高倉天皇・後白河上皇を支える」という関係にあったからです。平清盛も後白河上皇も互いに互いを利用し合う、政治駆け引きの1つです。

このような状況の中、平清盛は大納言や大臣へ次々と出世し、ついに太政大臣へと登りつめるのです。

平清盛、太政大臣へ

1167年10月、平清盛は皇太子となった憲仁親王の東宮大夫(とうぐうだいふ)となります。東宮大夫とは皇太子の世話役の代表者のような役職です。そして同じく1167年12月、遂に平清盛は太政大臣の官位を授かるまでになるのです。

平清盛が太政大臣になるまでの流れを超簡単にまとめると「天皇と上皇の対立を巧みに利用して甘い蜜を吸い続けた後、憲仁親王が生まれると後白河上皇との関係を密にし、憲仁親王の母である平滋子の立場を利用し太政大臣まで昇格した。」といった感じでしょうか。いずれにせよ、平清盛は世渡り上手すぎる!

太政大臣は名誉職

ところで、平清盛が就いた太政大臣とはどんな役職だったのでしょうか?

朝廷の官位は高い順に太政大臣、左大臣、右大臣、・・・と続きますが、実は太政大臣には仕事はありません。太政大臣は、既に権力者となった人物が名誉職的な意味合いで就任する役職だったのです。(奈良時代ぐらいまでは、ちゃんと役割がありましたが・・・)

そのため、平清盛が太政大臣になったところで特に何かが起こったわけではありません。平清盛は太政大臣に就任し、自らの経歴に箔をつけた後、わずか三ヶ月ほどで太政大臣を辞しています。太政大臣はあくまで名誉職なので、就任してもしなくても平清盛の権勢が変わることはありません。だから、就任したという経歴さえあれば、すぐに辞任しても良いわけですね。

平清盛が太政大臣になるまで(まとめ)

太政大臣は名誉職であり実質的権限がなかったにも関わらず、なぜ平清盛が太政大臣になったことが、学校で習うほどに有名になったのでしょうか?

それはズバリ、武士という身分の者が、長い間ずーっと貴族が支配していた朝廷官僚制のトップである太政大臣に成り上がったからです。

平安時代末期は貴族から武士へと権力が移り変わってゆく過渡期として捉えることができます。平清盛の太政大臣就任はそんな過渡期において、武士勢力が本格的に朝廷内を支配するようになった象徴的な出来事として有名になった・・・というわけです。

おそらく、平清盛の太政大臣就任は朝廷貴族達に計り知れない衝撃を与えたはずです。「俺たちでさえ簡単に就けない太政大臣に、武士が選ばれる時代になったのか・・・(落胆)」と。

こんなことを言ってしまうと元も子もないかもしれませんが、「平清盛が太政大臣になった」ということよりも、貴族→武士という権力構造の大きな変革の中で「武士が朝廷トップの要職に就任し、武士の権力の強さを公に知らしめた」という点がこの出来事の歴史的意義なのではないか・・・と思います。

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