木曽義仲ってどんな人?わかりやすく紹介【性格や巴御前との関係など】

今回は、源平合戦の主役の1人であり、短命ながらも激動の生涯を送った木曽義仲(きそよしなか)という人物について紹介したいと思います。

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木曽義仲の生い立ち

木曽義仲は、乳飲み子の頃から波乱万丈な人生を送ることになります。木曽義仲が2歳の時、父を殺され、木曽義仲自身も命を狙われることになったのです。しかしながら、いろんな人の助けがあって信濃国へと逃れることができました。当時、木曽義仲はたったの2歳ですから、おそらく木曽義仲には父の記憶はなかったことでしょう。

木曽義仲の父は、源義賢(みなもとのよしかた)という人物。源氏一族の争いに巻き込まれ、源義朝によって討ち滅ぼされてしまいます。つまり源平合戦で同じく主役だった源頼朝と木曽義仲は、運命的に因縁の関係にあったわけですね!

信濃国に匿われた木曽義仲は、平穏に青年期を過ごします。こんな言い方をするのは残酷かもしれませんが、物心つく前に父が殺されたことが幸いだったのかもしれません。源義朝の息子である源頼朝らに対して復讐心に燃える・・・ということもなく、信濃の山の中で元気に成長したようです。

木曽義仲も源氏の血筋の者なので、源義仲なんて呼ぶこともあります。しかし、上述のとおり、父を殺され命からがら信濃国へ逃げ落ち、信濃の木曽山で育ったことから「木曽」という名を用いるようになったと言われています。

【源頼朝】

木曽義仲の挙兵

1180年、以仁王という人物が、反平家を掲げてクーデターを起こします。以仁王は、平家に不満を持っているであろう各地の源氏に共に立ち上がるよう呼びかけます。木曽義仲も源氏の血を引く1人です。以仁王の呼びかけに応じ、木曽義仲は挙兵します。いよいよ源平合戦の始まりです!

今回は、源平合戦のきっかけとなった以仁王(もちひとおう)という人物について紹介します。1180年、以仁王は各地の源氏...

ちなみに、クーデターを起こした張本人である以仁王はすぐに平家軍に討たれてしまいます。

木曽義仲の兄に源仲家という人物がいます。木曽義仲は信濃に避難しましたが、兄の仲家は源頼政という人物の下で保護されました。源頼政は、以仁王と共に最期まで平家軍に対抗しますが敗北し、最後は自害。養父と共に戦っていた源仲家もこの時に戦死してしまいます。

今回は、源頼政(よりまさ)という人物について紹介します。源頼政は源氏の武士でありながら、歌人としても有名な人物。そし...

木曽義仲の拠点は北陸地方!

木曽義仲が本格的に登場するのは、1180年9月に信濃国に起こった市原合戦という平家との戦いだと言われています。

この戦の後、木曽義仲は関東や甲斐の源氏勢力との衝突を避けるため、源氏の勢力が及んでいない北陸地方で、勢力を拡大してゆきます。

木曽義仲は、北陸地方の平家に不満を持つ人々を次々と味方とし、連戦連勝。1181年になると日本の勢力図は、西の平清盛、北陸の木曽義仲、関東の源頼朝という3つの大きな勢力が出来上がります。(奥州の藤原氏を含めれば4大勢力とも言えます。)

木曽義仲と倶利伽羅峠の戦い

1182年、平安京は飢饉に襲われます。(教科書的には養和の飢饉と呼ばれています。)

養和の飢饉は、平安京にいる平家にとって深刻な問題でした。平家の勢力地である本命の西国からの食料供給は飢饉によりままならない。東に目を向ければ、東国、特に太平洋沿いの地域は源頼朝を筆頭に反平家の反乱が後を絶たず、同じく食料供給は途絶える状況。さらに、唯一頼ることができた北陸地方も木曽義仲が勢力を拡大し、緊迫した状況が続いていました。

このまま何もせずにいれば、平家は飢餓によりジリ貧の状況に陥ります。そんな中、平家が活路を見出そうとしたのが北陸地方。1183年、平家は木曽義仲を討伐するため大軍を北陸へ送り込みます。

木曽義仲と平家軍は一進一退の攻防を続け、倶利伽羅峠付近でこう着状態となります。兵力的には木曽義仲不利の状況ですが、山育ちの木曽義仲には地の利がありました。それに加え、木曽義仲は武勇に優れ、戦場においては知略にも優れたとても有能なリーダーでした。

木曽義仲は1183年5月、この倶利伽羅峠にて平家に奇襲を仕掛け大軍の平家軍を壊滅状態に追い込みます。

今回は、源平合戦で起こった戦の1つである倶利伽羅峠の戦いについて紹介しようと思います。(上の写真は私の気まぐれで乗せただけであり、倶...

平家にとって、倶利伽羅峠の戦いでの大敗北はその後の平家凋落を決定づける致命的な敗北でした。もはや平家に木曽義仲を抑える力は残っておらず、その後も木曽義仲は破竹の勢いで平家軍を破り、1183年7月、ついに木曽義仲は平安京入りを果たします。

それとほぼ同時に木曽義仲に対抗しうる軍事力を失った平家は都落ちし、平家は西国で体制を立て直そうとしました。

木曽義仲と後白河法皇

各地で挙兵した源氏らが考えていたことは概ね共通していて「治天の君(後白河法皇)に近づき、平家のポジションに取って代わってやろう!!」というもの。(ただし、源頼朝は例外で、鎌倉幕府設立という既存の枠組みを超えた政治思想を持っていました。)

そのためには誰よりも早く平安京に入り、後白河法皇との関係を密にする必要があったのですが、その一番乗りが木曽義仲なのです。「よーし、この勢いで後白河法皇や朝廷とも頑張って良い関係を作っちゃうぞー!」と意気込んでいた木曽義仲ですが、朝廷のルールやしきたりを知らずストレートな物言いをする木曽義仲は朝廷内でかなりドン引きされました。

皇位継承という非常に神経質な問題に新参者のくせにズカズカと物申したり、飢餓で混沌とする平安京の治安維持を任されたのにコントロールできず逆に治安を悪化させてしまうなど、木曽義仲の評価は最悪だったのです。(後者については、問題の根本が食料問題なので誰がやっても同じ結果だったかもしれませんが・・・)

この後白河法皇と木曽義仲の軋轢を狙ったのが源頼朝でした。木曽義仲を見限った後白河法皇は水面下で源頼朝と交渉を始めます。

源頼朝「法皇様、木曽義仲と上手くいってないんだよね?俺が代わりに色々と手伝ってあげようか?まぁ、当然俺の要求を飲んでもらう必要があるけどね!

後白河法皇「それはありがたい!木曽義仲は話が通じないけど、頼朝は昔に平安京にいたこともあって話がわかるなー。ちなみにどんな要求なの?話を聞こうか!

こうして、出された天皇から命令が有名な寿永二年十月宣旨です。

前回は、倶利伽羅峠の戦いについて紹介しました。倶利伽羅峠の戦いに大勝利した木曽義仲は、念願の平安京入りを果た...

詳しい話は上の記事に譲るとして、寿永二年十月宣旨により木曽義仲は実質的に失脚し、実権を源頼朝に奪われることになりました。

窮地に陥った木曽義仲は、一発大逆転の賭けにでます。それは「後白河法皇を武力で脅し、幽閉することで、自らの思いがままの法皇を操る!」というもの。

治天の君を武力で脅すという点については批判の声も多くありましたが、木曽義仲は自らの考えを決行。木曽義仲は、治天の君を襲撃するという前代未聞の出来事を起こします。これが、法住寺合戦です。少し前の大権力者、平清盛も似たようなことをしていますが、木曽義仲のそれはかなり露骨で多くの人を殺してしまいました。

今回は、源平合戦における戦の一つ、法住寺合戦について紹介しようと思います。法住寺合戦は、木曽義仲が後白河法皇の御所だ...

法住寺合戦の暴挙により木曽義仲は人望を一気に失い、兵は日に日に逃げ出し、平安京入りを果たした際は数万いた兵力は、1000程までに弱体化していました。

木曽義仲の最期、宇治川の戦い

法住寺合戦により幽閉した後白河法皇を利用し、次々と無茶苦茶な人事や命令を下す木曽義仲の下に、源頼朝が派遣した源範頼・源義経軍が迫って来ます。

弱体化した木曽義仲軍には、これに対抗するすべはありません。後白河法皇を幽閉している限り官軍を名乗れる木曽義仲は、一度後白河法皇を連れ、自らの本拠地である北陸へ逃げ込むことも検討します。・・・が、木曽義仲はわずかな兵力で源範頼・義経軍を迎え撃つ事を決断します。(この時、木曽義仲は既に死を覚悟していたのかもしれません。)

こうして起こったのが、宇治川の戦いです。1184年1月の出来事です。

今回は、源平合戦の戦の1つである宇治川の戦いについて紹介します。木曽義仲VS源頼朝VS平家の三つ巴の関係図は、宇治川...

多勢に無勢すぎる木曽義仲に勝ち目はなく、惨敗。最期を自害で終えようとするも、それすら叶わず、顔面を敵兵の矢で打たれ戦死してしまいます。当時は「敵兵に打たれるぐらいなら自害するほうがマシ!」という風潮があったので、無念の死・・・と言えるでしょう。木曽義仲、31歳の時でした。

以上が木曽義仲の生涯のハイライトになります。短命ながらも波乱万丈の生涯なことがわかりますね。

木曽義仲の人物像など

木曽義仲は、短気だけれども実直で豪快な人物として描かれることが多いです。言葉や態度は悪かったようですが、その実直さや豪快さ故にどこか人を惹きつける魅力があったようです。(だからこそ、北陸地方で多くの兵を集めることができたのだと思う。)

当時の朝廷は魔窟とまで言われ、忍耐強さと狡猾さがなければ生き残ることのできない過酷な場所でした。木曽義仲はこの朝廷文化に全く馴染めず、そのせいで自らの凋落を招いてしまいますが、これも木曽義仲が持つ朝廷で必要な素質と全く逆の素質、つまり「気が短い」「正直で誠実すぎる」というのが仇になったせいとも言えるでしょう。

木曽義仲を慕う人々

短気で態度の悪かった木曽義仲ですが、それでもそんな木曽義仲の下には義仲四天王と呼ばれる忠臣が存在しました。それが今井兼平、樋口兼光、根井行親、楯親忠の4人。この4人は敵軍からも優秀な人物としてマークされるほどの強者です。

この中でも今井兼平は、4人の中でもおそらく一番木曽義仲との関係が深い人物です。宇治川の戦いにて木曽義仲が死を悟った時、木曽義仲が安らかに自害できるよう、単騎で敵陣に特攻してその時間を稼いだ・・・と言われています。ここまで慕う忠臣がいる木曽義仲ですから、「性格悪くて態度悪いやつ!」という木曽義仲のイメージはやはり間違っていると思う!(しつこい)

もう1人、樋口兼光は倶利伽羅峠の戦いにおいて重要な背後からの奇襲部隊として活躍した人物。樋口兼光なくして倶利伽羅峠の戦いの大勝利はありません。ちなみに樋口兼光は、戦国時代に活躍する直江兼続の祖先と言われています。

【今井兼平】

【樋口兼光】

女武将、巴御前(ともえごぜん)の存在

さらに木曽義仲の忠臣には、当時としておそらく非常に珍しい女武将の存在もありました。その名を巴御前(ともえごぜん)と言います。

巴御前は平家物語などの物語上に登場する人物で、本当に実在したのか?どんな人物なのか?など今でもなお謎多き人物でもあります。平家物語では、巴御前の事を「巴は色白く髪長く、容顔まことに優れたり。強弓精兵、一人当千のつわものなり」と述べており、容姿端麗で豪腕な女性として描かれています。

そして、美しき武将巴御前と木曽義仲の関係も平家物語上でははっきりしていません。おそらく、平家物語作者は「後は読者のご想像にお任せしますよ(ニヤニヤ」的な感じだったんじゃないかと勝手に思ってます。

巴御前は、その謎の多さゆえに後世の物語では様々な形で登場します。これは巴御前が後世の人々を魅了する理由の1つかもしれません。

義仲四天王に巴御前、木曽義仲の下には忠義に厚い有能な人物がたくさんいました。「ぶっきらぼうで棘のある性格だけど根は誠実」そんなギャップが木曽義仲の魅力であり、人々から慕われていたのでしょう。

松尾芭蕉の「おくのほそ道」と木曽義仲

全国を転々と渡り歩き、各地で俳句を残している江戸時代の大俳人、松尾芭蕉。そんな松尾芭蕉が溺愛していた歴史上の人物が、この木曽義仲でした。

滋賀県大津市に、義仲(ぎちゅう)寺と呼ばれるお寺があります。上で紹介した巴御前が、亡くなった木曽義仲を供養したお寺と言われています。木曽義仲のお墓もこの義仲寺にあります。松尾芭蕉は大阪で亡くなりますが、「私の墓は木曽義仲の墓の隣に造ってくれ!」という生前の強い望みにより、松尾芭蕉の墓は木曽義仲の墓の横に造られたと言います。

木曽義仲が平家に大勝利した倶利伽羅峠には、松尾芭蕉が詠んだ俳句が石碑として今も残されています。

義仲の 寝覚めの山か 月悲し

訳:木曽義仲は、この地で夜の月を眺めていたのであろうか。(ここから見る)月は、なんとも哀愁漂う悲しきものだなぁ

松尾芭蕉が、木曽義仲に思いを馳せて詠んだ一句ですね。木曽義仲の生き様は死してもなお、後世の人々を魅了しているのです。

木曽義仲まとめ

このブログは、可能な限り客観的な視点から歴史を描きたい・・・と考え、自らの勉強も兼ねて書いているものですが、この木曽義仲の記事は意図的に主観的な意見を入れています。

というのも「歴史は勝者が作る」という言葉がありますが、木曽義仲は歴史的には敗者であり、敗者の歴史は勝者により改ざんされるのが常だからです。さらに源平合戦当時の木曽義仲は、平家からも源頼朝からも後白河法皇からも嫌われており、まさに四面楚歌の状態でした。

また、木曽義仲の生涯は波乱万丈で悲劇的な一面もありますがあまり話題になることもありません。なぜなら、源平合戦では木曽義仲以上に知名度が高く、波乱万丈で悲劇的な生涯を送った超人気者の源義経がいるから!!!

私自身、木曽義仲の生涯に惹かれる部分もあり、この記事では「実は木曽義仲ってそんな悪いやつじゃないかもよ?」って感じで書いてみました。

とは言え、もし木曽義仲が本当に最悪のヤツなら、今井兼平のような優秀な忠臣はいなかっただろうし、平家物語においてわざわざ木曽義仲を慕う巴御前の存在を描くようなこともしなかったでしょう。さらには俳人の松尾芭蕉が思いを馳せることもなかったはず。意図的にいいヤツっぽく木曽義仲を紹介しましたが、そこまで悪党でもなかったのだろうと思います。

ただし、木曽義仲は武勇に長け戦略を立てるのも上手かったようですが、政治的センスだけは致命的にありませんでした。義仲四天王の中にも政治的な智謀に長けた人物がおらず、この点が木曽義仲の非常に惜しい点です。「木曽義仲はいいヤツ!」というのが私の持論ですが、政治的センスが抜群だった源頼朝の方がやはり一枚も二枚も上手だった・・・という事実は揺るぎないように思います。戦いは力だけではない・・・木曽義仲そんな教訓を後世の人々に伝えてくれているような気がしてなりません。

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