承和の変(じょうわのへん)とは?超わかりやすく【淳和天皇と嵯峨上皇】1/2

huziwara_yosihusa

【藤原良房】

以前に、嵯峨天皇と平城上皇が争った薬子の変の話をしましたが、その後も皇位をめぐる争いが繰り広げられます。

薬子の変は、天皇と上皇の権力構造の矛盾が引き起こした事件でしたが、承和の変は、皇太子制度の歪みが引き起こした事件と言えます。

薬子の変と承和の変。あんま有名じゃないし、中身も地味です。しかし、これらの変は、日本の最高権力者だった天皇に、天皇制の欠陥を突き付けた歴史的にも重要な転換期だと私は思います。

薬子の変と承和の変という試練を乗り越えた天皇制度は、新しい時代へと進んでいきます。

それこそが藤原道長で有名な摂関政治であり、承和の変後、しばらくして臣下で初めて摂政になったのが、上の写真人物、藤原良房(よしふさ)です。

複雑な皇位継承問題 嵯峨上皇と淳和天皇

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【話が複雑なので、上図を参考にしながら読んでください(汗】

実は、嵯峨天皇の次の天皇は、平城天皇の息子である高岳親王の予定でした。しかし、薬子の変により失脚した平城上皇とともに失脚してしまったため、天皇候補から除外されてしまいます。

嵯峨天皇の子(後の仁明天皇)はまだ幼かったため、次期天皇は、消去法的に桓武天皇の非嫡子であった淳和(じゅんな)天皇となりました。(藤原乙牟漏が桓武の正妻のため、嵯峨が嫡子)

というよりも、桓武系の血を強く引き嫡流でもある恒世(つねよ)親王が、文句なしに天皇たる資格のある人物でしたが、天皇の父が天皇を経験していないというのは前例がないことだったので、ひとまず父の淳和天皇が選ばれたのです。

823年、淳和天皇即位です。これに伴って嵯峨は上皇となります。

思慮深き淳和天皇

実は淳和天皇、一度「私は天皇になりたくない」と嵯峨天皇へお願いしていたことがあります。恒世親王が天皇になれないと天皇家が断絶する可能性もあるので、もちろんその願いは却下されます。

なぜ、淳和天皇は皆が手が出るほど望んでいた天皇の座を断ったか。

それは、将来自分の息子の恒世親王が皇位継承争いに巻き込まれることを避けたかったからです。淳和天皇は、自分の力が嵯峨上皇には及ばず、嵯峨上皇の子が成人したとき、そのライバルとなる恒世親王に待っているは死のみであることもわかっていたのです。

そのため、淳和天皇は、皇太子(次期天皇)として自分の子である恒世親王を指名しませんで

では、誰を指名したか?それが嵯峨上皇の息子である仁明(にんみょう)天皇なのです。

【おまけ】
仁明天皇即位については、実は嵯峨上皇と淳和天皇は表面上仲が良いが、裏では熾烈な皇位継承争いをしていて、その駆け引きの中で淳和天皇が譲歩して仁明天皇を指名したという説もあるようです・・・。

淳和天皇は、仁明天皇(当時は皇太子時代は正良親王)を皇太子に指定することで、嵯峨天皇系と淳和天皇系の争いの芽を事前に摘むことに成功しました。

淳和天皇の行動には、思慮深さや私欲の無さが伺えます。しかし、淳和天皇の不安は現実のものとなっていきます。

運命の皇太子指名。藤原良房の登場

jowanohen

(再掲)

833年、淳和天皇は、皇太子だった仁明天皇に譲位します。ここまでは、淳和天皇の計算通り。

仁明天皇は即位と同時に次期皇太子を指名します。それが、恒貞(つねさだ)親王でした。

しかしちょっと待ってください!

恒貞新王は、淳和上皇の息子です。これでは、せっかく淳和天皇が思慮に思慮を重ねて恒世親王を皇位から外した意味がありません。

恒貞親王は淳和天皇の意思を受け継ぎ、一度皇太子になることを拒否しますが、その時点では恒貞以外に天皇たる資格を持つ者がいないため、受け入れられませんでした。恒世親王の時と全く同じです。

恒貞親王が皇太子になっただけでは特に問題はありませんでした。しかし、仁明天皇に子ども(将来の文徳天皇)が生まれたとき、

淳和系の恒貞VS嵯峨系の文徳

という皇位継承問題が浮上しました。

それでも嵯峨・淳和の2大上皇が生きている間は、平穏が保たれており、2大上皇が亡くなった後、政界のパワーバランスは崩れ、争いが勃発します。それが承和の変です。

今回は、承和の変の下準備。次回は本編突入です!

次:承和の変(じょうわのへん)とは?超わかりやすく解説【恒貞親王と藤原良房】2/2

前:怨霊って一体何なの?平安時代の怨霊事情【菅原道真・平将門・崇徳天皇】

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