大化の改新(乙巳の変)の目的と理由をわかりやすく【蘇我入鹿と蘇我蝦夷】2/2

kaishin

前回の記事では、乙巳の変が起こる前の状況について説明しました。この記事では乙巳の変により蘇我蝦夷・入鹿親子が殺害される様子を見ていきたいと思います。前の記事を読んでいない方は、まず下の記事を読んでみることをオススメします。

今回は、645年起こった蘇我氏排斥事件、有名な乙巳の変(大化の改新)について紹介したいと思います。 乙巳(いっし)の変と大...
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スパイ的存在の蘇我倉山田石川麻呂

上図の赤線で囲ってる人物は乙巳の変に関係のある人物です。人間関係がわからなくなったら上図を参考にしてみてください

2人が石川麻呂に打倒蘇我氏の話を打ち明けると、石川麻呂は快く承諾しました。石川麻呂は蝦夷・入鹿に嫉妬をしていたのです。蘇我蝦夷・入鹿が宗家の一族であるなら、石川麻呂は分家。宗家にとって代わりたいと分家の立場から見れば、蝦夷・入鹿は敵です。家督争いってやつですね。

蘇我一族の者を味方に引き入れられたことはかなり大きいです。石川麻呂を通じて、いろんな情報を収集できるようになりますからね。

絆の証!?中大兄皇子、石川麻呂の娘と政略婚

中大兄皇子は、石川麻呂の娘と結婚します。政略婚です。

石川麻呂から見れば、乙巳の変が成功すれば、中大兄皇子が天皇になるのですから、今のうちから娘を嫁がせておけば、将来安泰というわけです。中大兄皇子から見れば、信頼を見せつけるチャンスでした。

こうして、中大兄皇子・中臣鎌足・石川麻呂の3人が結びつきを強めていき、遂に計画を実行に移していくのです。

乙巳の変、その計画内容とは?

私邸から出てこない蘇我蝦夷・入鹿

実は、蘇我蝦夷・入鹿はあまり公の場に姿を見せませんでした。

天皇のいる朝廷にはあまり顔を出さず、私邸に多くの人を集めてやりたい放題やっていたのです。

私邸の中で打倒蘇我氏などできるはずがありません。打倒蘇我氏のためには、蘇我氏が私邸から出ており護衛が手薄な間を狙わなければなりません。

滅多に私邸から出てこない蘇我氏をどう外におびき出すか、それが大きな問題でした。

決行時期は、朝鮮3国の朝貢の儀に決定!

645年、百済・新羅・高句麗の3国が使者を派遣し、日本へ朝貢し来ることになってました。これは、日本にとっては日本が朝鮮3国の上に立つ国であるということを日本国内や朝鮮3国に見せつけるチャンスです。

国内の視点に立てば、3国の上に君臨する構図を見せることは国内統治の求心力となりますし、国際社会の視点に立てば、他国より上位の位置を占めることは防衛上大変重要な問題でした。

このように、朝貢は日本にとって重要な出来事です。それ相応の礼儀で3国を迎える必要があります。そこで行われるのが朝貢の儀です。朝廷の場で天皇や臣下が集まり儀式を行います。

これほどに重要な儀式ですから、蘇我入鹿も出席せざるを得ません。ちなみに、蘇我蝦夷は、政治を蝦夷に託し隠居生活だったので、表舞台にはでてきません。

中臣鎌足らは、決行の場を朝貢の儀と決めました。

ただし、この朝貢の儀、中臣鎌足らが入鹿をおびき寄せるために偽って企画したものと書かれている史料もあります。さてさて真相はどちらでしょうか。

いざ決行の時!乙巳の変

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645年7月10日、朝貢の儀が行われます。蘇我入鹿ももちろん出席しています。上の絵は、江戸時代に描かれた乙巳の変の様子です。絵について説明しますと、

真ん中のモザイク部分:切られた蘇我入鹿(過激画像のため、モザイクにしてあります)

刀を持っている黒い服の人:中大兄皇子

弓を持っている黒い服の人:中臣鎌足

左上にいる女性:皇極天皇

一番右にいる男性:子分

経過を見ていきましょう。

乙巳の変の詳細に迫る!

石川麻呂が、国書を読み上げる役目を務めました。石川麻呂が読んでいる間に、中臣鎌足らが雇った2人の子分が蘇我入鹿に切りかかる計画でした。石川麻呂を味方につけたメリットが大いに生かされていますね。

そして、子分らが失敗したときのため、中臣鎌足と中大兄皇子も隠れて様子を伺います。

しかし、石川麻呂がいくら国書を読んでも、子分たちは一向に切りかかる様子を見せません。子分たちは、土壇場になって恐れで体が震え、動けなくなってしまったのです。国書を読み上げている石川麻呂も、異変に気づき、恐怖のあまり体が震え、全身汗まみれとなってしまいます。

「子分らよ頼む!早く入鹿に襲い掛かってくれ!このままだと、計画がばれて自分も消されてしまう・・・」(心の声)

蘇我入鹿も震えて汗まみれの石川麻呂を不審に思い、こう尋ねました。

「なぜそんなに震えているのか」

鎌足は、苦し紛れにこう答えます。

「天皇のお近くにいるのが恐れ多く、震えているのでございます。」

これを隠れ聞いていた中大兄皇子は、遂に決断しました。「子分らはビビッて動けない。そしてこれ以上、石川麻呂も入鹿をごまかすことは難しいだろう。こうなったからには自分で入鹿に襲い掛かるしかない!」

中大兄皇子が蘇我入鹿を襲います。これに勇気づけられた子分らも同じく入鹿に襲い掛かります。

入鹿は脚を切られ、這いつくばりながら、皇極天皇を前にこう言いました。「私がいったい何をしたのでしょうか?」

皇極天皇は、中大兄皇子に入鹿をなぜ襲うか?と尋ねたところ、

「蘇我入鹿は、皇族を滅ぼし、皇位簒奪を企んでいました。」と中大兄皇子が答えました。

これを聞いた皇極天皇は、事態を察知し逃げ出してしまいます。蘇我入鹿は皇極天皇に見捨てられたのです。

そして、入鹿は切られ、上の絵のような状況となったのです。左上の皇極天皇は、ちょうど逃げ出しているところです。

こうして蘇我入鹿は殺されますが、これだけでは不十分です。蘇我蝦夷は健在ですし、蘇我氏の豪華絢爛な私邸や武力は健在です。中大兄皇子と中臣鎌足は入鹿を討つとすぐに蘇我蝦夷討伐へと向かいます。

蘇我蝦夷の死

中大兄皇子らは事前に蘇我私邸の近くのお寺に兵を配置しており、入鹿殺害後、すぐに兵を蘇我私邸へ派遣します。入鹿暗殺の次の日、7月11日の話です。さらに、中大兄皇子らは蘇我氏の味方だった東漢(やまとのあや)一族を中大兄皇子側へ寝返らせることに成功し、蘇我派の内部分裂に成功しました。

おそらく、東漢の寝返りも含め、全ては中大兄皇子と中臣鎌足の事前の計画通りだったのだろうと思います。

既に勝敗は決したと悟った蘇我蝦夷は、自ら自害しました。こうして物部氏没落以後、権勢を奮った蘇我宗家は滅亡します。(あくまで宗家です。蘇我氏自体はこの後も存在しています。)

乙巳の変の歴史的意義とは

645年の乙巳の変。日本史でもとても有名な事件ですが、この事件の歴史的意義とは一体何でしょうか。

日本は、500年代後半頃から朝鮮や中国(隋・唐)に負けないよう中央集権国家の成立を目指すようになりました。しかし、当時の日本の政治は豪族同士が協力し合いながら政治を行う体制をとっていました。(この豪族連合体のことをヤマト朝廷と言います。)

当時の朝廷や天皇は、中央集権国家を目指すため、自らの地位を有力豪族らから抜きん出た地位に高めようと努めていました。しかし、それには有力豪族たちが邪魔でした。特に最後まで政治争いを勝ち抜き圧倒的権力を誇った蘇我氏は天皇を脅かすほどの存在でした。その蘇我氏が乙巳の変で滅んだのです。

つまり、乙巳の変の歴史的意義とは、中央集権国家を目指す天皇にとって非常に邪魔だった蘇我氏の排除に成功したという点にあります。蘇我氏がいなくなったことで、少しずつ進んでいた中央集権国家への歩みがより一層加速することになるのです。

次回は乙巳の変の後の日本の様子を探っていきます。

次:大化の改新で世の中の何が変わった!?天皇制の一大改革【第1弾】
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