院政とは具体的に何か?簡単にわかりやすく【院近臣、成功、院宣、院庁下文など】

前回の記事では、なぜ院政が始まったのか?について紹介しました。

後三条天皇が1073年に亡くなった後、1072年に即位した後三条天皇の息子の白河天皇が活躍することになります。...

今回は、院政とは具体的にどんな政治なのか?という点について紹介したいと思います。

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絶対的君主「治天の君(ちてんのきみ)」

前回の記事でも説明したように院政の始まりは、強力な政治力が求められる諸問題を解決できなくなった堀河天皇が、出家し政治から離れていた白河法皇を政治の世界へ呼び戻したのがきっかけでした。当時関白だった藤原忠実も若年で経験不足であり、堀河天皇の補佐するには力不足でした。

寄進地系荘園の増大によって有力貴族や有力寺院の力が増し、土地をめぐる争いにも強い政治力や武力が求められました。そこで助っ人として現れたのが白河法皇なのです。院政と言えば、「強大な権力を欲した白河法皇が開始した絶対的権限を持つ政治」のように考えてしまうこともあるかもしれませんが、白河法皇自体は受け身であり、あくまで堀河天皇の要請を受けて政治の世界に再び登場したのです。

こうして、強大な権力を持たなければ解決できない諸問題に直面した白河法皇は、堀河天皇のバックアップという形ではなく、天皇の父という地位を利用し、自ら強大な権力を得て、諸問題を解決しようと考えました。

政治に興味を失う堀河天皇

堀河天皇は、人望厚く、非常に優秀な人物でしたが、白河法皇が自らの手で政治の実権を握るようになると次第に政治への関心を失っていきます。天皇親政を目指していた堀河天皇ですが、白河法皇の絶大な権力の前では、その夢は諦めるしかありません。そもそも、白河法皇に助けを求めたのは堀川天皇でしたが、白河法皇が助けるのレベルを飛び越えて堀河天皇の代わりに絶対的君主として君臨してしまったのは堀河天皇にとって大きな誤算だったのでしょう。

しかしながら、天皇自ら問題を解決することが困難となり、摂関家も未熟となれば他の者が代わって政治を行うという発想は自然な発想のようにも思います。そして、日本において天皇の代わりに君主として皆から認められる存在といえば、天皇家の家督たる天皇の父しかあり得なかったのです。こう考えれば、堀河天皇が白河法皇を頼った時点で、こうなることは自明の理であった・・・とも言えるかもしれません。この時代の政治のあり方は非常に複雑です。

こうして、天皇の父が天皇を超越した権力で政治を行うことを院政と呼びます。そして、絶対的君主として君臨する天皇の父のことを「治天の君」と言います。

上皇の権威と権力

治天の君は、絶対的な権威権力により朝廷を支配します。ところで、権威と権力の違いは何でしょうか?

「権威」は精神的に人々を心酔・服従させる力、「権力」は人々を動かす実質的な力(軍事力や法令制定権など)を意味します。治天の君は天皇の父という立場上、既に絶大な権威を誇っています。では、院政を行うのに必要だった絶対的権力はどのようにして構築されたのでしょうか?そんな点について見ていきたいと思います。

院近臣(いんのきんしん)ー上皇独自の人事権ー

白河法皇をはじめとする院政を行う上皇たちは、律令に基づく組織とは別に院政のための側近を自らのそばに置くようになりました。院政期における上皇の側近のことを院近臣(いんのきんしん)と呼びます。

院近臣には、上皇の権力・権威にあやかりたい多くの人々や、その能力を見出された者、上皇に気に入られた者、上皇との血縁関係がある者など、様々な人物が選ばれました。院近臣の指名は全て上皇が行い、そこに身分や貴賎の差はありません。通常の官僚制では出世の見込みのない人物でも院近臣になり上皇に気に入られれば人生一発大逆転も夢ではなかったのです。

そして、多くの人々は院近臣となり上皇に気に入られるため賄賂を行いました。特に豊富な財を持つ受領の多くは院近臣になろうと積極的に上皇に奉仕をすることになります。

受領を支配する治天の君

受領たちは、寄進地系荘園の形成により強大な力を得た有力な荘園領主との対立に苦しめられていました。そこで注目したのが院近臣でした。院近臣になって上皇の後ろ盾を得ることで強大な荘園領主に対抗し、荘園領主からの無理難題を退けたり、税を貪ろうと考えたのです。

こうして、上皇と受領は密接な関わりを持つようになり、これが院政における重要な財政基盤となりました。院政を行う白河法皇をはじめとする上皇らは院近臣を利用し、朝廷の財政を支えることで、権力を掌握していきました。当時の朝廷は、不輸・不入を掲げる荘園の増大などで財政難に陥っていたため、「上皇がその財政を支える」=「上皇が朝廷内で権力を有する」と言う構図が成り立つのです。

上皇と受領の癒着 ー成功(じょうごう)ー

白河法皇はじめとする院政を行う上皇は、院近臣という独自の組織を築くだけではなく、受領の人事権をも掌握していきます。もはや天皇や摂関家では、一度権威・権力を得た上皇に逆らうことはできなくなっていたのです。

上皇は受領らが自らに奉仕してくれた見返りに、受領たちを豊かな土地の受領に任命したり、任期が切れた受領を再び同じ国の受領に任命させる(重任と言う。)など、両者に癒着が顕著となりました。(院政以前からも行われていましたが、この時期に特に増えていきます。)

このような賄賂で役職を得る行為のことを成功(じょうごう)と言います。受領たちは院近臣となり、上皇と癒着することでさらに財を蓄えようと企み、一方の上皇も成功により財政基盤を確立させていきます。

寄進地系荘園と院政

寄進地系荘園とは、荘園を持つ土地所有者が受領からの過酷な納税義務や他者との土地争いなどを優位に進めるため自らの土地を有力貴族などに寄進することで生まれた有力者の広大な荘園のことを言います。土地所有者は、寄進の見返りとしてその土地の管理・運営を任されたまま、何かあれば土地を保護してもらうことができました。

詳しくは、以下の記事をどうぞ。

前回は、後三年の役という源氏が一躍有名となった戦の様子を紹介しました。今回は、話を180度変えて平安時代中期...

土地を寄進する立場に立てば、自らの土地を守るためには誰に土地を寄進すべきか・・・というのを考えなければなりません。朝廷に強い影響力がない人物に寄進しても、自らの土地を保護してもらえず意味がないからです。つまり、寄進先として人気があるのはその時その時の最も権力を有する人物ということになります。

白河法皇による院政が始まる以前は、土地の寄進先としてよく選ばれたのは摂関藤原氏でした。特に藤原道長なんかは朝廷内の絶対的権力者として君臨していたので、道長に土地を寄進しとけばよほどのことがない限りその土地が受領や他者から狙われることはありません。

堀河天皇に代わって白河法皇が政治の全権を担うようになると、寄進先として人気となるのは白河法皇でした。

こうして受領からも荘園からも財政的支援を受けることとなった上皇は、その圧倒的財力で朝廷財政を牛耳ることで、圧倒的権力を誇ることができたのです。

院宣と院庁下文

財政的基盤を固め、権力を掌握した上皇は、院宣院庁下文(いんのちょうくだしぶみ)という命令文書を用いて政治を行いました。

院宣は、上皇直属の命令系統。院庁下文は、院庁という院政の実務を行う官僚機構において正式な決裁過程を経てから発出される命令文書です。重要度は、院庁下文>院宣です。院宣は上皇の私的な命令に用いられることが多く、院庁下文は重要文書に用いられることが多い命令方法でした。

白河法皇の院政が始まると、世間の人々は天皇からの命令よりも院宣や院庁下文を優先するようになります。これは、多くの人が白河法皇の方が頼りになり、天皇よりも権力を有していると考えていた証拠でもあります。

このようにして、天皇の権力は形骸化し、天皇権力に付随することで権勢を誇った摂関藤原氏も衰退の一途を辿るわけです。

まとめ

院近臣と受領の任命という2つの人事権をフル活用することで朝廷内の財政基盤を固め、権力を誇ったのが院政という政治の概要です。上皇の権威・権力が人々から認識されるようになると、人々は天皇の命令は聞かなくなり、上皇が出す院宣や院庁下文が効力を有するようになります。

これまでの天皇をトップにした政治は、形骸化している面があったとしても律令(法律)に基づく政治でした。ところが、院政は違います。院政における秩序は上皇の絶対的権力・権威によってのみ維持されるものであり、そこに律令のようなものはありません。上皇の権威・権力に依存する院政と言う政治は非常に不安定な制度であり、上皇が政治を行う権力・権威を失った時、その政治制度はたちまちに崩壊していまします。

平安時代末期の源平合戦の頃に院政を行った後白河法皇と言う人物の時代になると、院政による権力・権威は低下し、世は乱れ、院政の後に源頼朝が開いた鎌倉幕府が登場します。不安定な院政という特殊な政治制度は、貴族中心の政治から武士中心の政治へと世が大きく変わっていく過渡期として日本史では位置付けられているようです。

白河法皇の嘆き ー天下三不如意ー

白河法皇は、自らの思い通りにならぬものとして、次のような言葉を残しています。

「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」

賀茂河(今の鴨川)の水とは川の氾濫のことであり、双六のサイの目も自分の力ではどうしようもならぬ・・・と白河法皇は言っています。白河法皇の言う通り、自然と運ばかりは人智の及ぶところではありません。しかし、最後の「山法師」だけは違います。

山法師は延暦寺の僧のことを指しており、神や仏を盾にして無茶苦茶な要求を押し通してくる強訴(ごうそ)のことを言っています。これはまさに政治の話であり白河法皇は、絶大な権力を持ってしても延暦寺の強訴だけは手に負えないと生涯頭を悩ませているわけです。

この白河法皇の言葉は、逆説的な意味で「賀茂川の水・サイコロの目・山法師以外であれば全ては私の思い通りである」という意味で用いられることが多いです。(白河法皇がどのような意図で言ったのかはわからない)

それほどまでに白河法皇を苦しめた強訴とは一体どのようなものなのでしょうか?次回はそんな話をしてみたいと思います。

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