意外と知られていない稲作伝来の裏話

わかりやすい日本史講座の連載を開始します。

この講座ではそれぞれの出来事のつながり・関連性を重視しながら、日本史について解説していきたいと思います。つながり・関連性を重視するのは、歴史は「現在」「未来」へと連続性を持つものだという私の持論によります。

講座は弥生時代からスタートします。縄文人には謝っておく(汗)

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お米はあまり食べられていなかった?意外な事実!?

学校では、弥生時代に大陸から稲作技術が伝来し、弥生時代の人々はお米を食べていた。

と、教わっているのではないでしょうか。自分もそうでした。

確かにそれは間違ってはいません。しかし、弥生時代の人々は一体どれぐらいの量のお米を食べていたのでしょうか。

貯蔵穴の遺跡に残る堅果類(栗などの木の実)の多さや稲穂の遺物などの考古学な見地から、実は、そこまでの収穫量はなかったのではないか?との説があります。

この説に従えば、稲作伝来後すぐにお米が主食になったわけではなく、数世紀の時間をかけて少しずつ人々の間に広まっていったことになります。

弥生人「お米は栄養満点で上手いし、加工・保存も簡単な完璧な食べ物だ!みんなも早く米をたべようぜ!!」

というよりは

弥生人「お米は素晴らしい食べ物だけど作るの大変だわ。別に他に食べ物もたくさんあるし、無理して作らなくてもいいんじゃね?めんどくさいし。ただ・・・、米はうまいから簡単に作れるのならもちろん米を食べたい」

という発想だったんじゃないのかなと思います。

実際に、稲作伝来前の日本の食糧事情はかなり裕福だったようです。食糧貯蔵庫や貝塚などの遺跡を見ると、たくさんの食糧を食べていた様子が伺えるからです。無理してコメを食べる理由がなかったと言えるかもしれませんね。

稲作の伝来で人々は食糧を安定的に得ることができ、縄文時代の不安定な食糧事情を克服したというような印象を受けてしまいがちですが、実際はそうではないのです。

縄文時代の食糧事情については、東日本と西日本の文化はなぜ違う?縄文時代からのアプローチでちょっと触れているので気になる方は参考にどうぞ。

弥生時代の人々はどのような心境でお米の伝来を受け止めていたのでしょうか。気になるところです。

稲作を伝えた渡来人

稲作は大陸の人々から伝えられました。稲作伝来ルートは列島内の地域ごとで諸説あるようです。

ここでは、朝鮮半島~九州ルートについての話をします。

ところで、渡来人はなぜ日本に来たのでしょうか?

大陸での戦乱に巻き込まれないよう朝鮮半島に逃げ込み、さらに南下を続け日本にやってきたのです。おそらく対馬を中継して今でいう玄界灘辺りに上陸したのでしょう。

大陸では、定期的に紛争が勃発していたのです。

興味深いのは、弥生時代の人々と渡来人が争った形跡が見られないことです。当時の人々は、渡来人の存在を受け入れていたと考えることができます。最新技術を伝えてくれる渡来人は弥生時代の人々にとっては魅力的だったのかもしれませんね。

しかし、形跡がたまたま見つかっていないだけかもしれませんので、断言的なことは言えません(汗)。

渡来人が伝えたもう1つのもの。青銅

渡来人は稲作のほかにもう1つ日本に大きな影響を与えるものを日本に持ち込みました。

それが青銅です。

青銅がもたらした影響は大きく2つあります。

1つ目は、青銅により木製だった農具をより頑丈な農具へと改良できたこと。

2つ目は、貴重財として用いられることにより集団内の身分格差が拡大したこと。

2つ目はとても重要で、日本は弥生時代(紀元前300年頃から)から奈良時代までのおおよそ1000年の間、紆余曲折を経ながらひたすら中央集権国家の樹立に向けて歩み続けます。(中央集権のことを「王権」と言うことにします。)

王権への歩みは壬申の乱に勝利した天武天皇によって完成するのです。その歩みを追うのが飛鳥・古墳時代の歴史と言えるかもしれません。

いずれにせよ、その歩みへの第一歩が身分格差の拡大でした。身分格差の拡大。今の世の中、あんまいい意味では使われないですね。

弥生時代の人々は、みんなそれぞれの集落を持って生活をしていました。集落は稲作の普及に伴ってどんどん大きくなっていきます。

なぜなら、稲作を行うにはより多くの人々と協力し合うことが必要だったからです。土を耕して、農具を作って、稲刈りをして、保存場所を作って、加工して・・・と稲作は多くの作業を必要とするのです。

そんな肥大化する集落を統率するには求心力のあるリーダーが必要ですが、そこで青銅が使われるわけです。

リーダーの求心力は何によって得られるのか。

当時の求心力の強さは、豊穣祈願などを行う祭りをどう行うかにかかっていました。政治は、政(まつりごと)と言われることもありますが、由来は祭りと言われています。わいわい騒ぐだけがお祭りではないのです。

当時の人々にとって、種々のお祭りは政治だったのです。お祭りで人々の心を掴むことができるような人がリーダーとして頭角を現してきます。

青銅は、お祭りで使う祭器として、多く使われるようになるのです。貴重な青銅器を使うことで、祭りのシャーマニズム的な印象を強めることができていたのだと思います。

次回は,集落が次第に大きくなっていく過程について説明していきます。


次:もう1つの戦国時代 ~集落から国へ~

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