超わかりやすい藤原純友の乱【武士の世の始まり】4/4

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藤原純友は朝廷との交渉の結果、936年の海賊討伐の勲功を貰えることとなり、当初の目的を達成しました。普通ならこれで戦いは終わるはずでした(たぶん、純友もそのつもりだったと思います。)しかし、純友の仲間らは戦いをやめませんでした。

戦いを止めたい純友。もっと戦いたい純友の仲間たち。純友は微妙な位置に立たされます。

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純友の苦渋の決断

940年2月、純友は朝廷から勲功を得るため、京へ向かっているところでした。

しかし、そんな純友を無視して、藤原文元ほか仲間たちは、四国・中国地方で暴れ続けます。そして遂に、反乱軍はその勢いで備前国(今の岡山県らへん)と讃岐国(今の香川県らへん)を制圧してしまいます。よほど、受領たちが憎かったのか・・・?

同じ940年2月、朝廷内では平将門の乱の平定の報告を受け、四国・中国地方の反乱分子を一気に潰すことを決定します。平将門の乱が早期に終わったことで、戦力を西方面へ集中できるようになったためです。(将門の乱は939年12月に起こったので、たった2か月で平定されてしまったことになります。)

そのため、純友は勲功を貰うため京へ向かったものの、心変わりをした朝廷は純友を追い返してしまいます。

様子を見る純友と朝廷

朝廷は純友を追い返したものの、直接純友と敵対するつもりはなかったようです。あくまで、朝廷の敵は備前・讃岐国を制圧した純友の仲間らで純友自身ではありません。朝廷は、文元らと戦いながら、純友が仲間たちに加勢するのか?それとも朝廷に寄り添ってくるのか?様子を見ていました。朝廷も無駄な敵を作りたくなかったわけです。

2月から六か月が経過した940年8月、状況が変わります。朝廷は、藤原文元ら反乱分子を追い詰めることに成功。文元らは窮地に立たされます。文元ら反乱軍は、純友に援助を求めます。迷っていた純友に決断の時がやってきます。

讃岐国を制圧する純友 -朝廷との闘い-

純友の行動①:伊予国→讃岐国

純友は、軍を引き連れて伊予国から讃岐国へ向かいます。今でいえば、愛媛から香川へ行くイメージです。

讃岐国で、暴れているのは藤原三辰(ふじわらのみつとし)という人物。純友は、この三辰に加勢し、讃岐国を取り戻そうとしていた朝廷軍をボッコボコにします。

朝廷に寄り添うか、朝廷に逆らって仲間を助けるか、苦渋の決断に迫られていた純友は仲間を助けることを選んだのです。

こうして純友率いる反朝廷軍VS朝廷軍の本格的な戦いが始まるのです。

戦いを止めたい純友

純友の行動②:讃岐国→周防国→土佐国

反朝廷の立場を鮮明にした純友ですが、純友は決して戦いたくて戦っているわけではありません。

朝廷に付き勲功を得るか、仲間を取るか・・・の二者択一を迫られていて、仲間を選んだわけですが、純友の真の目的は、「仲間を助け、しかも朝廷と和平を結び勲功も得る。」というもの。二者択一ではなく両方を取るつもりでした。

朝廷と対等に和平交渉をするには、被害をもっと拡大させ、朝廷を困らせる必要があります。下手に出たり、朝廷に舐められると不利な条件で和平を結ばなければならないからです。また、兵士たちの士気の維持・兵站の確保のためにも制圧地を増やすことは重要でした。

讃岐国を制圧した純友は、後の藤原三辰に任せ、自らは周防国・土佐国へ制圧地を拡大していきます。940年8月~12月頃の話です。周防は今でいう山口県に東側、土佐国は高知県です。

朝廷の内部工作 -窮地に立たされる純友-

土佐国まで攻め入るまでは良かったのですが、その後純友は窮地に立たされます。

朝廷に懐柔される純友の仲間たち

純友が各地で戦っている間、制圧済みの讃岐国は朝廷軍の猛攻にさらされていました。

朝廷は、報酬や官職をチラつかせ純友の同僚たちを懐柔します。純友軍を内部から破壊しようとしたのです。

純友の軍隊には、純友のように武勇によって朝廷での出世を狙う者、生活が貧しく海賊で生計を立てていて純友の武勇に惹かれた者が多くいました。このような人々を勲功や金で釣るのは簡単なことでした。

そして遂に明くる941年1月、遂に讃岐国を制圧していた藤原三辰は朝廷軍に敗北し処刑され、純友の本拠地である伊予国も朝廷軍に屈します。純友は後ろ盾を失ったことになります。

姿を消す純友

劣勢に立った純友は、土佐国を出た後、姿をくらまします。瀬戸内海には小島が乱立しています。おそらく、どこかの島に隠れ体制を立て直そうとしていたと思われます。

大宰府を襲撃する純友

讃岐が朝廷に制圧されてから4か月後の941年5月、突如大宰府に姿を現し、大宰府を襲撃します。

大宰府は朝廷にとって、九州における最重要拠点です。(なぜなら、交易の要所だから!大宰府は今でいう博多らへん)

純友はこの重要拠点を制圧することで、朝廷と和平交渉を有利に進めようと考えたようです。・・・が、勢いに乗った朝廷には既に純友と交渉する気はありませんでした。朝廷を和平交渉のテーブルに引き出せない純友は、遂に大宰府にて朝廷との最終決戦をむかえることになります。

藤原純友の敗北

純友は、大宰府において受領の独裁に苦しむ反受領勢力を味方につけ、朝廷軍に対抗しました。しかし、平将門の乱が終わり、伊予・讃岐らの四国・中国地方を抑えた朝廷は戦力を集中して大宰府へ投入しました。

全力の朝廷軍に、朝廷に骨抜きにされた純友軍が勝てるわけもなく純友は敗北。一旦は逃亡したものの、その後、藤原純友は討たれました。

こうして939年から2年にわたって行われた藤原純友の乱は朝廷軍に鎮圧されました。

源経基の出世 -清和源氏の始まり-

少し余談。藤原純友の乱を鎮圧した褒美として、功労者には勲功が与えられました。

この純友の乱の中で、出世と遂げた人物の1人に源経基(みなもとのつねもと)という人物がいました。実は、源経基は平将門の乱の時にも登場しています。

源経基は、清和源氏の祖であり、あの有名な源頼朝のご先祖様に当たります。その源経基は、藤原純友の乱によってその頭角を現すことができたのです。

平将門の乱では、平清盛のご先祖である平貞盛が頭角を現しました。

このような意味でも、藤原純友と平将門が起こした乱というのは日本史的には地味だけれども源頼朝・平清盛と言った有名武士のご先祖を始めとした武士たちが本格的に歴史の表舞台に登場したという点では重要な出来事と言うことができます。

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