藤原不比等とは?系図などをわかりやすく【藤原宮子と光明子】

今回は、藤原不比等(ふじわらのふひと)という人物について紹介しようと思います。藤原不比等は、700年前後(飛鳥時代末期〜奈良時代初期)に官僚として活躍した人物で、平安時代に朝廷を支配した藤原氏の祖として藤原氏の地位を高めた日本古代史の重要人物です。

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藤原不比等と父の鎌足

藤原不比等の父は、乙巳の変(大化の改新)で中大兄皇子と共に政治を牛耳る蘇我氏を打ち滅ぼした中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。

乙巳の変後も頭脳明晰な中臣鎌足は長い間政治の中枢を担います。669年に亡くなりますが、当時の天皇だった天智天皇がその功績を偲び、死の直前に「藤原」の姓を与えたと言われています。

藤原鎌足の息子の藤原不比等は、偉大な父の存在にもかかわらず下級官僚として政治の世界に入り込みます。

壬申の乱による没落

藤原不比等が父の功績にも関わらず下級官僚にしかなれなかった原因は、大海人皇子と大友皇子が皇位を巡って争った壬申の乱にあります。

前回は、日本が白村江の戦いでフルボッコにされた話をしました。敗戦後、唐・新羅の侵略に怯える日々が始まりました...

藤原不比等は、壬申の乱で敗北した大友皇子側の人間だったため、その後の政治においても優遇されることはありませんでした。(当時、藤原不比等はまだ若く、直接的に壬申の乱に参戦していたわけでもなかったので、処刑や流罪にまではなりませんでした。)

藤原不比等の運と実力

父のコネもなく、下級官人として政治の世界に入ることになった藤原不比等ですが、何かの縁で草壁皇子(くさかべのみこ)という人物に仕えることになりました。

詳細な経緯はここでは省略しますが、697年、草壁皇子の息子だった軽皇子(かるのみこ)という人物が皇位継承争いを勝ち抜き、文武天皇として即位します。藤原不比等はこの文武天皇の即位に大きく貢献したと言われ、文武天皇の時代に大きな躍進を遂げることになります。

藤原不比等の功績 ー大宝律令の制定ー

701年になると歴史的に有名な「大宝律令」という律令が制定されます。大宝律令は、日本初の本格的な律令であり、その内容は天皇を中心とした政治を行うための様々規程が設けられていました。ちなみに「律令」は「律」と「令」に分けられ、「律」は今でいう刑法。「令」は今でいう行政法を中心とする諸々の法律のことを意味します。

藤原不比等は、この大宝律令の制定のプロジェクトチームの一員でした。当時、藤原不比等は40歳前後であり、おそらくはサブリーダー的なポジションでした。(プロジェクトリーダーは刑部皇子という皇族出身の人物でした)

大宝律令は唐の律令を日本の制度に馴染むよう改良したものであり、その制定には法令の話はもちろん、唐の政治や風習など詳細かつ広範な知識が求められました。そして、おそらくは大宝律令の制定作業は相当ハードだったはずです。唐で制定された膨大な量の条文が規定されている刑法・行政法・民法を日本風に矛盾のないように改正する訳ですから、生半可な知識や体力では決して成し遂げられない仕事でした。

藤原不比等は、結果的に文武天皇の父である草壁皇子に仕えていたという幸運と大宝律令制定のプロジェクトチームに抜擢されるほどの実力により、下級官人から一気に朝廷内の要職にまで登り詰めることになります。

藤原不比等の系図

以下に藤原不比等の系図を掲載します。登場人物の確認にご活用ください!

藤原不比等の娘その1、藤原宮子

697年に即位した文武天皇は、わずか14歳でした。幼少天皇が頻繁に即位するのは平安時代に摂関政治が行われるようになってからなので、当時としては異例の若さでの天皇即位でした。天皇主権の政治が出来立てホヤホヤだったこの時代、政治を主導するには文武天皇は若すぎました。当時の実質的な政治の支配者は、文武天皇の祖母である持統太上天皇でした。「太上天皇」とは前代の天皇のことを言います。

持統太上天皇は自分の孫の文武天皇の即位を強く望んでおり、その文武天皇即位に貢献した藤原不比等は、持統太上天皇からも非常に信頼されていました。こんな持統太上天皇と藤原不比等の関係は、藤原不比等と天皇家の関係をより親密にします。藤原不比等の娘である藤原宮子が文武天皇に嫁ぐことになったのです。

当時の天皇制は男系血統を重視していましたが、天皇の正妻(いわゆる皇后)にも皇族の血筋が求められるのが一般的でした。そのため、藤原宮子は天皇家の正妻ではありませんでしたが、藤原宮子は後の聖武天皇の母であり、その後の藤原氏の隆盛に大きな貢献をした人物です。

藤原不比等の娘その2、藤原光明子

藤原不比等にはもう1人の娘がいました。藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)です。藤原光明子は聖武天皇の皇后として非常に有名な人物で、日本で初めて皇族以外で皇后になった人物です。

藤原光明子が皇族以外の者でも皇后になれる事例を切り開いたことは、平安時代に行われる摂関政治の基礎となります。

藤原不比等の息子たち、藤原四兄弟

藤原光明子が聖武天皇の皇后になれた背景には、同じく藤原不比等の息子であった4人の兄弟たちの存在があります。4人の不比等の息子たちはまとめて藤原四兄弟と一般的には呼ばれています。藤原不比等は720年に亡くなりますが、その後の朝廷を支配したのがこの藤原四兄弟です。

四人の名前は具体的に次のとおりです。

藤原武智麻呂(むちまろ)(680年 – 737年)
藤原房前(ふささき)(681年 – 737年)
藤原宇合(うまかい)(694年 – 737年)
藤原麻呂(まろ)(695年 – 737年)

この4人の強い協力によって、藤原光明子は日本初の皇族以外の皇后になることができたのです。ちなみに4人のうちの藤原房前の子孫は、後に摂関政治を行う摂関藤原氏となります。藤原房前の子孫として特に有名なのは藤原道長でしょう。

まとめ、藤原不比等は藤原氏の祖!

以上、藤原不比等についての紹介でした。藤原不比等は自らの運と実力で下級官人から大出世を遂げた人物です。そして、藤原不比等の子供たちもまた、父の不比等が築き上げた藤原氏繁栄をより一層盤石なものにすることに貢献し、2代に渡り藤原氏の地位を確固たるものにしました。

血統的には藤原氏の祖は藤原鎌足ですが、その一族繁栄という点では藤原不比等が藤原氏の祖と言えます。特に藤原不比等の息子の1人、藤原房前の一族は藤原北家と呼ばれ、平安時代に摂関政治を行い絶大な権力を誇った藤原氏一族となります。

このように平安時代に大繁栄する藤原氏の基礎の基礎を作り上げたのが藤原不比等なのでした。

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