謎の多い卑弥呼と邪馬台国

前回は、大陸との朝貢関係が日本に形成されはじめた巨大集落(国っぽいもの)に重要な役割を果たしていたというお話をしました。

今回は、卑弥呼と邪馬台国という今でも謎の多い2つのキーワードが中心になります。

卑弥呼は、「女帝である卑弥呼とは一体誰であるのか?」

邪馬台国は、「巨大な国であった邪馬台国はどこにあったか?」

という古代史上の謎は、昔から人々の好奇心を刺激してきました。

なぜ謎が多いのか

当時の日本には,文字というものが普及しておらず、遺跡などを調べても文字として残っている史料がないというのが、両者の謎解きの解明を困難にしています。

古墳などの文字以外の史料から推理していく必要がありますが、やはり決定的な証拠となるような史料というのが発見されていないのが現状です。

また、魏や漢によって書かれた書物により当時の日本の様子を知ることができますが、魏や漢からみれば日本は朝貢国の1つでしかありません。そのため、内容の真偽やそもそもの文献量が少ないのです。

女帝の出現と倭国争乱の終結

倭国争乱は一向に終わる兆しが見えませんでした。そこで、各国で和睦交渉が進められます。

「みんなが納得できるような人物を擁立させ、この戦いを終わらせよう」と皆は考えました。

そこで、擁立されたのが卑弥呼であると魏志倭人伝では書かれています。

これならいきなり女帝が擁立されるのもわかりますよね。また、卑弥呼が選ばれた背景には、卑弥呼の持つ神秘的な力(シャーマニズム的な力)があったとされています。

当時の日本では、豊穣祈願などの祭りが今でいう政治であったということを意外と知られていない稲作伝来の裏話という記事で紹介しましたが、祭りで大事なのはシャーマニズム的な要素でした。そのため、前例のない女帝とはいえ、政治を司るリーダーとしての素質は多くの人に認められていたのではないかと考えられています。

そして、卑弥呼が統治した国が邪馬台国であるとされています。

邪馬台国は、北九州説・近畿説の大きく2説があるようです。謎の解明には今後の考古学発見に期待をしましょう!

 魏から破格の対応。卑弥呼、親魏倭王になる

当時、日本は、後漢の朝貢国でした。後漢が崩壊した後、大陸で三国志時代が始まると朝貢先は魏に移り変わり、卑弥呼は魏へ朝貢することとなりました。

朝貢については、集団から国へという記事の中で説明をしています。

後漢崩壊後、魏への朝貢は初めてでした。

にも関わらず、金印を授かり、「親魏倭王」という名まで魏からもらうことができたのです。金印は臣下に対して渡すものなので、日本は臣下として認められたということになります。その上で、「親魏倭王」つまりは魏と倭国は友好的な関係であるというのです。

魏が日本に対して友好的だったのは三国志時代の真っ最中だったため無駄な敵を作りたくなかったことや、日本列島は呉の後背地になると信じられていた(呉は今でいう上海や台湾の方なので、これは当時の人々の誤解。)ので、呉へのプレッシャーという意味も込められていました。

卑弥呼は、魏から受けたこの地位を背景に国内統治を進めていきました。親魏倭王の名をどう利用したかというと、

「私はあの大国魏から正式に認められた倭国の王。私に逆らうということはつまり魏に逆らうということになるけど、そこらへんわかってる?」とか、こんな感じですね。

もし、このタイミングを意図的に選んで朝貢をしたのなら、卑弥呼はなかなかの策略家だったのではないかと思ったりします。魏にもうちょっと余裕があれば、こんな破格な待遇は受けることはできず、国内統治は難しかったかもしれません。

古墳時代の幕開け

卑弥呼の登場により一度は国内情勢は落ち着いたものの、次第にまた卑弥呼登場前の状態に逆戻りしていきました。

再び起こった倭国争乱。そんな中で登場したのが古墳でした。いつになれば平穏な日々がやってくるのやら。

魏志倭人伝によれば、卑弥呼の墓はおおよそ直径150mの大きなものであったと伝えられていました。ちょうど卑弥呼が亡くなった時期は古墳時代への移行期だったこともあり、卑弥呼の墓は古墳であったと考えられています。

しかし、卑弥呼の古墳がどれなのか、諸説あるようで現時点で定かではありません。

争乱の収拾に尽力した卑弥呼。未だに謎が多い人物です。

次回は、古墳の話です。


次:古墳を読み解く
前:もう1つの戦国時代 ~集落から国へ~

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