素朴な疑問。なぜ日本人は平城京へ遷都した?-遣唐使派遣-【その1】

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なんと(710年)きれいな平城京」という語呂合わせで有名な平城京。

平城京、知らない人は少ないと思いますが、なぜ造られたか知っていますか?

多分、ほとんどの人が知らないんじゃないかと思います。

歴史は、起こった出来事だけを知っていても意味はありません。起こった出来事について「なぜ」という疑問を持ち、その理由を理解することが大切です。

そうすることで、歴史上で起こった出来事を、現代と比較して考察することができます。さらに、その考察が新しいアイデアや発見をもたらし、思考を豊かにします。歴史は、ノンフィクションです。そこから得るものは多いのですよ。

話が横道に逸れました(汗

今回の話は701年からスタートします。前回お話しした持統・文武の時代です。

30年ぶりの遣唐使の派遣を決定!

701年、あの有名な大宝律令が制定される

701年、大宝律令が制定されます。

大宝律令は、689年に公布された飛鳥浄御原令を約10年ほど運用していく上で、法令上の不備などを整備した本格的な律令でした。

(飛鳥浄御原令については、天照大神はなぜ日本の最高神なのか?伊勢神宮と天武天皇をどうぞ)

当時の法令体系は、「律」が刑法「令」がその他の一般法(民法や行政法など)でした。飛鳥浄御原令では「律」がまだ未完成でしたが、大宝律令では、刑法も整えられたことになります。

(大宝律令の中身は、大変興味深いのですが、省略します・・・。別の記事で書くかもしれません!)

なぜこの時期に遣唐使を派遣したのか

時代はちょっとさかのぼり、673年、白村江の戦いで日本は唐・新羅連合軍に大敗を喫しました。この大敗により、和平交渉は成功したものの、日本と唐の国交は断絶することになります。

(白村江の戦いについては第2次世界大戦に次ぐ日本史上の大敗、白村江の戦いをどうぞ)

そして、白村江の戦いでの大敗後、報復として唐が日本に攻めてくることを恐れ、必死の国土防衛策を展開していきます。日本史上最高レベルの危機が訪れました。

(国土防衛については、現代日本の原点となった壬申の乱。なぜ壬申の乱は起こったのかの前半部分をどうぞ)

日本にとっては、唐と国交を回復するまで脅威は無くなりませんが、相手はアジアの大国です。唐に対等な国であると認めてもらえなければ、国交回復の交渉は決裂し、日本が属国にされる可能性もあります。

そして、聖徳太子の時代から続けられていた天皇をトップとした国造りが急ピッチで進められ、天武天皇・持統天皇の国政改革を経て、遂に大宝律令の完成をもって唐と対等外交ができそうだ!と思えるような国が出来上がりました。

遣唐使派遣を決定した701年の翌年、702年に遣唐使が派遣されます。

注)遣唐使の派遣理由については、不明な点も多く定説が定まっていないようです。上の理由は参考程度ということでお願いします m(_ _)m

成功と衝撃 -遣唐使の成果はいかに!?-

国交回復へ -粟田真人(あわたのまひと)の活躍-

結果から述べますと、唐とは無事に国交回復を遂げます。これによって、日本の危機的状況はひとまず終わりました。

国交回復には、粟田真人の活躍が大きなウェイトを占めます。粟田真人は民部省のトップ(今でいう総務省+国税庁のような省庁の大臣的な存在)であり、遣唐使の最高責任者です。ちなみに「真人」は八色の姓の最高位です。(八色の姓については天照大神はなぜ日本の最高神なのか?伊勢神宮と天武天皇を参考にどうぞ~)

粟田真人は、とても聡明で礼儀正しい人物であったようで、唐の人から見ても非の打ちどころのない人物でした。

唐の皇帝は、

粟田真人の礼儀を重んじた態度であったこと

日本がちゃんと朝貢(貢物を持って、格下の国が各上の国へ訪れること)スタイルでやってきたこと

対等外交だ!と日本が強い主張をしてこなかったこと(607年の遣隋使は、日本の天皇を天子と発言し、皇帝を大激怒させています。気になる方は聖徳太子はなぜ有名?わかりやすい聖徳太子物語第3話をどうぞ)

唐が、近隣国と良好な関係を結べていなかったこと

などなど、様々な理由から、日本との国交回復を認めました。お互いの取り決めとして「20年に一回は必ず唐へ朝貢して来いよ!」という約束を交わしたようです。

また、対等外交を目指していた日本に考慮し、日本は唐の冊封体制には組み込まれない形となりました。冊封体制とは、中国の天子思想に基づくもので、中国皇帝を頂点として隣国と君臣関係を結び、隣国の君主らに中国独自の官爵を与えることを言います。

日本としては、日本独自の「天皇」という位があるわけですから、ずーっと昔から冊封体制には断固として反対し続けてきました。

冊封体制について詳しく知りたい!という方は、推古天皇による遣隋使派遣(記事:聖徳太子はなぜ有名?わかりやすい聖徳太子物語第1話)や有力天皇の冊封拒否(記事:日本人のほとんどが知らない古墳時代の偉人。雄略天皇)を参考にどうぞ~

こんな感じで、遣唐使派遣は成功しました。607年の小野妹子率いる遣隋使がコテンパンにされたのと比べると酷い違いです(汗

(小野妹子の遣隋使派遣については、聖徳太子はなぜ有名?わかりやすい聖徳太子物語第3話

え?日本の都古すぎ!?衝撃を受ける遣唐使一同

日本は、聖徳太子の頃からずーっと隋・唐に習った国づくりを目指していました。

ところが、いざ、唐の都の長安を視察してみると、日本が思っていたのと全然違っていました。

きっと遣唐使一同の1人くらいは、「唐を参考に藤原京とかいろいろ造ってきたけど、全然違うじゃん・・・。唐と対等の立場に立ちために頑張ってきたのに、これじゃあ時代遅れだと馬鹿にされるだけだ。あー!今までの苦労全部水の泡!!orz」と思った人がいたんじゃないかぁと思います。

でも、これって当たり前なんです。だって、日本は白村江の戦いで唐と国交断絶をした670年ごろから30年間ずーっと唐へ行ったことないんですから(汗

30年間、書物や聞いた情報だけを参考にひたすら唐を真似て国づくりを行っていたのです。あんま教科書とかに載ってないですけど、これってかなり凄いことだと思います。

文化の違う他国の制度を、実際に行ったこともないのに、本と伝聞の情報だけをたよりにそのまま日本に輸入できてしまうあたりに、日本の国民性を垣間見ることができるような気がします。

古代ローマ人も模倣の達人ですが、日本人と比べると柔軟性に長けているような気がします。日本人は、やや潔癖症なところがあるのかもしれませんね。それは日本人が血筋を重んじることとも関係があるかもしれません。

次回は、遣唐使たちが持ち帰った衝撃的な情報をもとに、遂に平城京が造営される話をします。平城京造営という華やかな事業の裏には深い闇が存在していました。

次:なぜ平城京へ遷都したの?-裏にあるブラック企業すぎる実態-【その2】
前:夫の遺志を引き継いだ持統天皇、学校では絶対に教わらないサイドストーリー

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