なぜ平城京へ遷都したの?-裏にあるブラック企業すぎる実態-【その2】

heijokyo

前回(素朴な疑問。なぜ日本人は平城京へ遷都した?-遣唐使派遣-【その1】)は、遣唐使たちが長安を見て衝撃を覚えたお話をしました。「なんやこれ・・・。わいらが思ってた唐と全然違うやん!」

702年に、派遣された遣唐使たちは、704年に帰ってきます。

そして、唐で見た長安を参考にしながら、日本は藤原京に代わる新たな都、平城京の造営を目指していきます。今回は、そんな平城京造営のお話を見ていきます。

特に平城京造営の裏にある過酷な実態については、学校では絶対に教わりません。ぜひ読んでみてください。

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母と子の連係プレイ -聖武天皇即位への道-

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(出典:wikipedia  「文武天皇」 最終更新日:2015年10月16日 (金) 09:33)

今回主役となる天皇たちは上図でいうと、(42)文武天皇(43)元明天皇です。

602年、持統太上天皇が逝去。「太上」とは、譲位後の天皇を意味します。

持統天皇は、697年、文武天皇に譲位していました。そもそも、持統天皇は、文武天皇が成長するまでの間のつなぎ役として天皇になっていたので、予定通りの譲位と言えます。

(持統天皇については、夫の遺志を引き継いだ持統天皇、学校では絶対に教わらないサイドストーリーもご覧ください)

しかし、その文武天皇も607年に逝去してしまいます。25歳でした。早すぎる他界です・・・。

イレギュラーな即位 立派な母だった元明天皇

文武天皇は、自分の息子の首皇子(おびとのみこ。後の聖武天皇)を皇太子にしようとしていましたが、文武天皇は想定外の若さで亡くなってしまいました。707年でした。首皇子は若すぎたため、当時まだ天皇にはなれません。

早逝した文武天皇の次の天皇は誰だ!?皇位継承争い勃発の予感がする中、結局即位したのは元明天皇。女帝です

女帝というか、元明天皇は、亡くなった文武天皇のお母さんです。首皇子を天皇にするという息子、文武天皇の悲願を達成するための即位でした。

平城京は、元明天皇の治世に造営されます。

何がダメ?藤原京の致命的ミス

708年、元明天皇は、平城京遷都を決定します。遣唐使が戻ってきてから4年後です。次こそは、唐の長安に習った立派な都を作ってやる!!と意気込んだことでしょう。

ところで、藤原京は何がダメだったのでしょうか?

昔から続く天子南面の思想

難波宮への遷都。古代日本人はなぜ遷都を繰り返すのかという記事の中で、一度説明したことがあるのですが、天皇は北側に位置し、南側を向いて臣下たちと対面すべきという思想がありました。中国皇帝の振る舞いを参考にしたものと言われています。日本は、とにかく中国を真似て国の威信を高めることに必死だったんですね。

ところが、藤原京は、天皇の住む宮がど真ん中にあります。

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これじゃあ、天皇の北側にも人々がたくさんいて、すべての民衆に対して南面することができません!

それでも、藤原京をこのような形にしたのは、「周礼」という唐から伝わった書籍にこのような都が描かれていたからです。日本は、30年以上も唐に行ったことがないにも関わらず、伝聞した情報のみをもって律儀に唐を模倣しようとしていました。凄いのやら効率悪いのやら・・・。

「唐の都なら天皇が民衆に南面できなくてもしょうがない・・・。」と思って造り上げた藤原京でしたが、いざ長安に行ってみると唐の都は「周礼」という本に載っていた唐の都とは全く異なるものでした。長安では天子南面思想に基づき、ちゃんと天皇の住む場所は都の北側に位置していたのです

ちなみに、平城京の宮はしっかりと北側に位置しています。これですべての人々に対して南面することができます。唐の長安を参考にして造り上げた都なので当然です。Heijokyo

なぜ、宮の位置にそこまでこだわるのか?

もちろん、宮の位置だけが遷都の理由ではないかもしれませんが、大きな要因の1つとして存在したのは確かだと思います。

現代の我々から見ると「え?それだけ?」とバカみたいな理由に思えるかもしれません。しかし、忘れてはならないのは、当時の日本は天皇による君主国家であるということ。時代も違いますが、国の在り方そのものも全く違います。

天皇の権力・権威を高めるため、宮の位置を修正し、正しい唐の都の姿を再現すること事こそが平城京に求められた役割だったのです。

ちなみに、710年に平城京が完成したと教科書にありますが、実際に完成したのは宮の部分だけです。宮の外は710年以降ゆっくりと造られていきます。

平城京の裏の姿。ブラックすぎる強制労働

上記のように、天皇が平城京遷都に熱意を傾ける一方、そこには平城京遷都のため強制労働を強いられている民の姿がありました

何がブラックかというと、それが強制労働ではなく、実質強制労働であったということ。一応、今でいう給与は支給されましたが、それはごくわずか。しかもその給与で日々の食事代や挙句の果てに旅費までも賄わなければなりません。

このやり口がなんというか、現代のブラック企業に通ずるものがあると思えて仕方がない・・・。

こんな、やり取りが目に浮かびます。

朝廷「おい、お前ら故郷から平城京に来て働け。たっぷり給与も出すぞー

民「それなら天皇のためにもしょうがないな・・・。(平城京へ向かう)

朝廷「あ、ちなみに君たちが平城京まで来るときに発生した費用は自分で賄ってね。あと平城京にいる間の生活費も全部お願いね。それと給与はこんだけね。あとよろしく

民「は?そんなの聞いてないし。それじゃあ強制労働と同じじゃねーか。やってられんから帰るわ

朝廷「給与をだしているので強制労働ではありません。なお、平城京が完成するまでは変えることはできませんのでご了承くださいませ。(ニヤッ

民「誰か・・・助けて・・・・

上は、妄想ですが、実際に脱走する民も結構いたようです。

反乱の予感

そんな、民に重い負担を強いた平城京造営。地方でも、不満が高まり、ただならぬ雰囲気だったようです。

朝廷は、畿内の国々対して今でいう税金免除令を出しますが、その中で「遷都により動揺する民衆の心は簡単には鎮まらない」と当時の緊迫した状況が述べられています。

さらに、軍を派遣し、東国からの交通の要所となる関所を封鎖します。

余談ですが、関所は不破と鈴鹿にありました。どちらも壬申の乱の際に、天武天皇が要所として抑えた地域であり、天武死後も重要な要所であり続けます。(下図参考)

天武天皇の着眼点は素晴らしいものだと改めて感じますね!

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不破・鈴鹿の関所を封鎖するということは、東国での反乱の恐れがあったことを意味しています。

平城京は一朝一夕で完成したものではなく、当時の人々の血のにじむような困苦の上に成り立ったということを我々は忘れてはいけません。

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