桓武天皇が平安京に遷都した理由とは?超丁寧に解説してみる。

heianzingu

前回は、桓武天皇即位のお話をしました。

桓武天皇の即位は、天武天皇の血統を断絶させたまさに革命とも言える出来事でした。考え方によっては、天皇家が一度断絶したと言うこともできるかもしれません。

桓武天皇は、天皇に即位してすぐに平城京からの遷都を決定します

794年、桓武天皇は平安京への遷都を行いますが、なぜ遷都を行ったのか知っている人は少ないです。

今回は、なぜ平安京へ遷都したのか?という点を見ていきます。

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桓武天皇の遷都に対する想いを知る

血筋だけではなく政治勢力も一新したい

桓武天皇は、天武天皇の血統を断絶させた上で即位した革命的な天皇です。その天皇が天武天皇を子孫たちが築き上げた平城京を住処にしたいと思うでしょうか?

天皇の血筋だけではなく、都を改め、政治勢力も一新したいと考えていました。

政治の世界から仏教を排除せよ

奈良時代後半は、仏教に政治が振り回された時代でした。

聖武天皇の大仏建立の詔を発端に始まった大仏建立事業では貧困に苦しむ民に追い打ちをかけ、称徳天皇の時代には僧の道鏡が天皇位簒奪を企てるなど国が大きく乱れました。

※道鏡は天皇位簒奪を企てていなかったという説もあります。

(聖武天皇の大仏建立については、学校では教えてくれない行基の話-東大寺大仏造立へ-【聖武天皇】4/4をどうぞ)

(道鏡の天皇位簒奪については、仏と神はどっちが上?道鏡「天皇になりたい」称徳「だが断る」

桓武天皇は、これらの反省を踏まえて政治の世界から仏教を排除しようと考えます。

しかし、平城京は仏教都市です。平城京にいる限り、政教分離はできません。遷都を決断した背景には、こんな仏教事情もあったわけです。

長岡京へ遷都と挫折

桓武天皇が即位してから3年後の784年、桓武天皇は遷都を決定します。それが長岡京でした。

長岡京建設の責任者、藤原種継(たねつぐ)暗殺される

しかし、長岡京の建設はすぐに頓挫します。

建設の責任者である藤原種継が弓で射貫かれ暗殺されてしまうのです。長岡京建設を決定してからたった1年後の785年の出来事でした。

平城京では遷都に対する反対意見が依然として強く、その不満が種継暗殺を引き起こしました。前回説明した、氷上川継の変と言い、桓武天皇即位後の政治情勢は非常に不安定なものだったと言えます。

 首謀者は桓武天皇の弟!?早良親王の悲劇の死

犯人とされたのは、大伴継人(おおとものつぐひと)。

そして、真の首謀者は既に亡くなっていた大伴家持(おおとものやかもち)と言われています。

大伴家持は、歌人として有名で多くの歌を万葉集に残した超モテ男でもあり、有能官僚でもありました。旧勢力側として大伴家持は、最後まで桓武天皇に抵抗を続けました。前回(日本人なら知っておけ!桓武天皇の偉業【なぜ平安京へ遷都したのか】)説明した氷上川継の変でも首謀者の1人として名前が上がっています。

大伴家持は、既に亡くなっていましたが、官僚としての名誉をすべてはく奪されてしまいます。

大伴家持は、東宮大夫(とうぐうだいぶ。皇太子の世話役の中の最高責任者)でした。ここから、皇太子である早良親王にも疑いの目が向けられます

早良親王は、桓武天皇の弟です。桓武天皇は次期天皇候補を弟に指名していたのです。

桓武天皇は、種継を殺した早良親王を憎悪します。
※本当に早良親王が首謀者なのか。それとも策略に嵌められただけなのか、実はそこら辺のことはよくわかっていません・・・。

早良親王に与えられた刑はとても残酷なものでした。早良親王は幽閉されたのち、食と水を絶たれ餓死してしまいます。

早良親王は、皇太子、次期天皇候補です。そのような身分の者にこのようなむごい刑を与えることは当時としては衝撃的な出来事でした。

そして、早良親王の死が平安京遷都の決定的な契機となります

呪われた長岡京、早良親王の怨霊

早良親王が亡くなってから、桓武天皇の周りでは不幸が連続して続きます。箇条書きで書いていくと

788年:藤原旅子(桓武の妻。正妻ではない)の逝去

789年:高野新笠(桓武の母)の逝去

790年:藤原乙牟漏(ふじわらのおとむろ。桓武の正妻)の逝去

792年:長岡京、2回の洪水に見舞われる。新しい皇太子、安殿親王(あてしんのう)が病床に伏す。

最後の安殿親王の病の原因は、公式に早良親王の祟りとして認められました。

早良親王の祟りを鎮めるため、鎮魂の儀式が行われ、早良親王には崇道天皇(すどうてんのう)と天皇号を追称されます。
※現代では、正式な天皇とは認められていません。

早良親王は、皇太子でしたから次期天皇候補です。たとえ死後であっても、天皇になったこともない者に天皇号を与えるとは異例の事態です。

早良親王に天皇号を授けるあたりから、桓武天皇が早良親王の怨霊を強く恐れていたことが読み取れます。

平安京遷都へ

早良親王の怨念が残る長岡京、怨霊を恐れた桓武天皇は再びの遷都を決断します。

そして、794年、桓武天皇は平安京へ遷都します。こうして、現代の京都市の原型となる平安京が出来上がるのです。

平安京遷都に際して忘れてはならない人物は、やはり早良親王でしょう。実の兄に凄惨な仕打ちを受けた早良親王。その祟りが平安京遷都を決定づけたことを忘れてはいけません。

1人の人間の強い想い(怨念)が、世の中を大きく動かしたのです。

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