古代日本の軍事と防衛の歴史【武士登場前の日本の軍隊とは?】

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しばらく、武士の登場について話をしていきます。

武士は、平安時代中期~末期に登場しました。しかし、登場当初は、歴史の表舞台の主役はあくまで貴族たちで武士たちは目立たない存在でした。

今回は、平清盛や源頼朝などの有名な武士たちが登場する前の、あまり知られていないちょっとマニアックな歴史について紹介します。今までの記事の総集編的な感じで、武士についてはあまり触れていないので、読まなくてもいいかもしれません・・・(涙

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武士登場前の日本に軍隊は存在したのか?

この記事では、武士の話をする前に、武士が登場する前の日本の軍隊について見ていくことにします。

弥生時代から平安時代まで段階ごとに見ていきます!

弥生時代の日本の軍隊事情

弥生時代は、日本列島内での内紛の時代。内紛と言っても、まだ現代のように日本という国がしっかりできていないので、集落同士の争いが続いていました。そんな争いに一度、終止符を打ったのが、あの有名な卑弥呼です。

これは、史跡からもわかっていて、詳しくはもう1つの戦国時代 ~集落から国へ~という記事で紹介しているので、気になる方はどうぞ!

天然の要塞、日本。侵略の恐れがない国がとる行動とは?

日本の地理的な話を少しだけ。

日本は東は太平洋に囲まれています。敵国がいるとすれば、アジア大陸、特に朝鮮半島に存在する日本海を渡ってくる可能性がある国々でした。

しかし、日本でいう古墳~平安時代ぐらいまでの朝鮮半島は、中国(隋や唐)からの侵略に常に備えなければならず、しかも、朝鮮半島内で争うことも多くて、とても日本を侵略できるような状況ではありませんでした。

むしろ、日本と友好関係を結び協力関係を結ぼうとする動きが多かったんです。

という感じで、日本は国防の面でみると桁外れに優れた環境にいたわけです。

そして、何もしなくても、中国の侵略などに悩んだ朝鮮半島の国々(百済、新羅、高句麗など)が勝手に日本へ歩み寄ってくる。

そんな状況が日本に領土欲を駆り立てていきます。

古墳時代の日本の軍事事情 -高句麗との闘い-

古墳時代になると、弥生時代から続いた集落同士の戦いも終わりに近づきます。

戦いが終わるというのは、次第に強大な権力を持つ1人の人間が日本を統治し始めたという意味です。日本の内乱が終わろうとしていたわけですね。

内乱に終止符が打たれた日本が次第に目を向けていったのが朝鮮半島でした。

きっかけは朝鮮半島の方からやってきます。

日本は、百済からの援軍要請を受け、朝鮮3国(百済、新羅、高句麗)の争いに加わることになるのです。

こうして百済・日本連合軍VS高句麗・新羅連合軍の戦争が始まります・・・が、日本は大敗北を喫します。

(戦争の話は簡単にですが、混迷の朝鮮半島。百済・新羅・高句麗という記事で紹介しています♪)

未熟な日本軍

国内の内乱が終わったばっかの古墳時代の日本ですが、日本軍は一枚岩で団結することはできず、未だに地域ごと、集落ごと集まって自分勝手な行動を取ってしまいました。

これが、高句麗・新羅連合軍に大敗を喫した大きな原因でした。

内乱が終わり、国内統治が進んだ日本でしたが、日本軍はまだまだ未熟な状態だったんですね。

飛鳥時代の日本の軍事事情

日本軍の転換期 -攻めから専守防衛へ-

飛鳥時代は、日本軍の転換期であり、とても重要な時代でした。

日本軍の歴史を変えたのは、古代の朝鮮出兵、白村江の戦いです。

またまたきっかけは朝鮮半島からやってきます。朝鮮半島では唐、高句麗、百済、新羅の4国での激しい争いが行われていました。

この戦いで窮地に立たされたのが百済。百済は、唐に攻められ万事休すという状態でした。百済は日本と比較的友好的な国だったので、日本に援軍を求めます。

朝鮮半島に強い影響力を持ちたかった日本はもちろん、百済の援軍要請を引き受けます。

が、古墳時代の頃と同じように大敗を喫してしまいます。やはり、日本軍は統率力に欠け未熟だったのです。

(白村江の戦いの詳細は、第2次世界大戦に次ぐ日本史上の大敗、白村江の戦いの記事をどうぞ!)

唐の脅威におびえる日々 -防人(さきもり)の登場-

白村江の戦いでの敗北で、日本は唐からの報復におびえ続けることになります。

これまで、積極的に朝鮮にちょっかいを出してきた日本ですが、白村江の戦いをきっかけに唐を恐れる日本は次第に専守防衛へと姿勢を変えていきます。

そこで登場したのが防人(さきもり)です。

朝鮮や中国から敵が攻めてきた場合、敵は船で日本海を渡ってくるわけですが、一番船をつけやすいのが博多湾!

ということで主に九州を中心に防御を固めていました。

奈良時代の軍事事情 -意外!?圧倒的軍事力-

日本は、飛鳥時代から引き続き、唐を仮想敵国とし、鉄壁の防衛軍を作り上げます。

この鉄壁の守備を作り上げたのが、大宝律令に基づく公地公民制度でした。

公地公民制により、国は人民を統治することができました。なので、軍事に割く人数も国である程度自由に決めることができました。

どれぐらいの人数かというと、人口6,7百万に対して兵力20万人です。

現代日本だと、おおむね人口一億数千万人に対して、自衛隊員は約15万人です。

今と昔の兵力の比率を比べると、奈良時代の圧倒的な兵力数がわかります。この圧倒的兵力から、日本が唐に対して相当の恐怖心、警戒感を持っていたことがわかります。

結局、唐が白村江の戦いの報復として日本に攻め込んでくることはなかったため、日本軍の強さを図ることはできません。しかし、この時期の日本は全然目立ちませんが、かなり強大な軍事力を持った国と言えると思います。意外ですよね!

平安時代の軍事事情 -土地をめぐる争い-

奈良時代、唐からの攻撃に備え、圧倒的兵力を誇っていた日本。

しかし、奈良時代後半になっても唐は全然攻めてこない。次第に日本は、「唐はもう攻めてこないんじゃね?」と考え始め、膨大な維持費をかけて兵力を維持するのを少しずつ辞めていきます。

対外的な脅威がなくなった日本は、国内の領土拡大を図ります。有名なのは東北遠征のアテルイと坂上田村麻呂ですね!

(アテルイと坂上田村麻呂については、

坂上田村麻呂とアテルイを超わかりやすく説明してみた【アテルイ登場まで】1/2

・坂上田村麻呂とアテルイを超わかりやすく説明【アテルイ無双】2/2

私有地の増大に伴う、土地トラブルの増加

平安時代、公地公民制の崩壊が進み、私有地が増加します。これに伴って土地トラブルが増えていきます。

(土地制度などについて知りたい方は、平安時代の税金事情【番外編】の記事をどうぞー)

土地トラブルに対応するため、人々は武力行使を始めます。こうして、日本国内では大小さまざまな争い事が勃発していきます。

この時に武力として活躍したのが武士なんです。

まとめ

日本と言えば、武士があまりにも有名ですが、武士が登場する前にも日本にはちゃんとした軍事力がありました。

そして、武士は、日本国内での土地トラブルの紛争から生まれたものですが、一方でこれは日本が外国から攻められることのない平和な時代だったとも言えます。

次回は、平安時代の武士登場の背景をもうちょっと詳しく見ていきます。本屋のに置いてある歴史本にはあまり載っていないマニアックな話が続きます・・・。

次:武士が誕生した理由とは?【日本の海賊の歴史】

前:国司と受領の違いは?名田、田堵負名とは?わかりやすく解説

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