善政・有能?後三条天皇はどんな人?わかりやすく紹介【院政と摂関政治の衰退】

前回は荘園整理令の話をしました。

前回は、不輸・不入の権について話をしました。寄進地系荘園が増え、荘園が不輸・不入の権を掲げるようになると、朝廷は税収...

今回は有名な「延久の荘園整理令」を発令した後三条天皇という人物について紹介したいと思います。後三条天皇は、有能とか善政とか言うキーワードで語られることの多い比較的イメージの良い?天皇です。

疎まれる尊仁(たかひと)親王

後三条天皇が天皇即位する前の話です。実は、後三条天皇は時の権力者であった摂関藤原氏の藤原頼通から疎まれていました。この話は、以下の藤原頼通の記事でもお話ししました。

今回は、平安時代中期に栄華を誇った藤原道長の息子である藤原頼通(ふじわらのよりみち)のお話をしようと思います。藤原頼...

少しだけ前の記事の内容を。

藤原頼通は父の道長のように娘を天皇の妃とし子を産ませ、その子を天皇にすることで外戚の立場から権力を掌握しようとしました。しかし、藤原頼通の目論見は失敗します。後朱雀天皇・後冷泉天皇と2代に渡り、娘を嫁がせ子を産んでもらおう!と考えた頼通でしたが、子に恵まれることがなかったからです。

後冷泉天皇が1045年に即位すると皇太弟として藤原氏を外戚としない尊仁親王(後の後三条天皇)が選ばれます。藤原頼通はこれに危機感を覚え、尊仁親王を疎んじるようになりました。時の権力者から疎んじられていた皇太弟時代は、後三条天皇にとって不遇の時代となります。

さらに時の権力者である藤原頼通に逆らいたくなかった多くの人もこれに追従し、尊仁親王は非常に肩身の狭い思いをすることになります。。しかし一方では、尊仁親王は藤原頼通を敵対視する人々の求心力にもなっていました。

そんな中、頼通を良く思わず、頼通から疎まれていた尊仁親王に全てを捧げた男がいました。それが藤原能信という人物です。

後三条天皇に全てを賭けた藤原能信(よしのぶ)

藤原能信は藤原道長の息子で、頼通の異母兄弟に当たります。藤原道長は、源倫子(みなもとのりんし)を正妻と見なし、倫子から生まれた息子・娘たちを重用していました。これは上の系図を見てみるとよーくわかります。

藤原能信は源明子と言う人物の子であり、倫子の子ではありません。そのため、倫子の息子たちよりも出世が遅く軽んじられていました。藤原能信はこの境遇に強い不満を抱いており、藤原頼通・道長とも真っ向から対立する立場をとります。源明子の他の娘・息子たちは不遇にありながらもそこまで事を荒立てませんでしたが、藤原能信だけはこの境遇に我慢ならなかったようです。藤原能信は天真爛漫な性格だったのです。

そんな藤原能信が頼通に対抗するために行った大博打が、尊仁親王の後見人となる事でした。1045年後朱雀天皇が病に伏すと、藤原能信は後朱雀天皇に尊仁親王を皇太子とするよう強く懇願しました。後朱雀天皇はこの強い懇願を受けて尊仁親王を皇太子に指名し、同年、後朱雀天皇は亡くなります。後朱雀天皇には藤原頼通から「尊仁親王を皇太子にするなよ!」との圧力があったはずですが、その圧力を振り切っての皇太子指名でした。後朱雀天皇としても、尊仁親王に好意を持っていたところに、藤原能信がその後押しをした・・・というところでしょう。

皇太弟となった尊仁親王ですが、多くの人は尊仁親王がそのまま天皇になれるとは考えていません。後朱雀天皇亡き後即位した後冷泉天皇へ藤原頼通が娘を入内させており、産まれてくる子が尊仁親王の皇太子の座を奪うだろう・・・と皆思っていたからです。普通、皇太子や皇太弟になったらいろんな人から「私の娘を嫁にしてくれー!」と多くの話があるのですが、尊仁親王に関してはそんな話は全くなく、尊仁親王は屈辱的な思いをしたはずです。

これに困り果てた藤原能信は、養子にしていた藤原茂子と言う人物を尊仁親王に嫁がます。茂子は皇太子の妃となるにしては身分が低く、通常は妃になどなり得ない存在であり、このことから尊仁親王の当時の境遇を伺うことができます。

そんな逆境に立たされていた尊仁親王ですが、結局、藤原頼通の娘と後冷泉天皇の間には遂に子が産まれることはなく、運も味方し奇跡的に天皇として即位します。1068年の話です。誰もが「天皇になれるはずがない」と尊仁親王を冷遇する中、藤原能信だけは長い間、尊仁親王を信じ続け一発大逆転に成功したのです。ですが、残念ながら1065年に藤原能信は亡くなっていたため、能信自身は後一条天皇即位という晴れ舞台を見ることはありませんでした。あの世の能信もさぞかし後三条天皇の即位を喜んだことと思います。

公正明大な後三条天皇

このような事情があったので後三条天皇が即位した当時、それまで後三条天皇を冷遇していた多くの人々はその報復人事に怯えることになります。ところが、後三条天皇は報復人事を行うことはありませんでした。後三条天皇は、能力のある者であれば過去のことは水に流し次々と重要役職へと抜擢していきます。

後三条天皇は、若き頃から聡明との噂で、政治姿勢についても非常に公正明大な人物だったのです。それに後三条天皇は皇太子時代から大江匡房(おおえのまさふさ)と言う優秀な人物から学問を学んでいました。ちなみに大江匡房は、以下の記事で紹介した後三年の役で活躍した源義家に兵法を教えたことでも有名な人物です。

前九年の役が終わったのが1062年。約20年後の1080年ごろ、東北地方は再び動乱の渦の中へと巻き込まれていきます。この時の一連の戦...

延久の善政 ー荘園整理令と物価統制ー

そんな公正明大な後三条天皇ですが、その政治も善政として知られています。特に有名なのは前回の記事で紹介した延久の荘園整理令です。後三条天皇による荘園整理例はこれまでにない徹底ぶりで行われ、有力貴族や大寺院の不正荘園にもメスを入れました。今までにない本格的な荘園整理令を実行に移すことができたのは、上述した公平な人事があってこそと言えます。

荘園整理令の他にも庶民たちの暮らしの安定のため、後三条天皇は物価統制などの政策を天皇主導で積極的に実施していきます。外戚に藤原氏を持たない後三条天皇はしがらみに縛られることがなく、天皇主導で政治を行える久しぶりの天皇でした。それに加え、後三条天皇自身が優秀な人物だったことも後三条天皇の政治が善政と呼ばれる所以となっています。

延久の宣旨升

後三条天皇の政策の中でも、おそらく庶民たちにとって一番嬉しかったのは升(ます)の大きさを統一したことでした。当時の日本は水や米などは基本的に升で計られ、納税量についても「あなたの納税額は米『一升分』です」みたいな感じで計算されていました。そのため、升の大きさを統一することは公正な税制を確立するために非常に重要なことだったのです。例えば、国司が農民から税金を多く徴収と思えば、升の大きさをこっそり大きくしてしまえばいいのです。これ以外にも、国司から朝廷へ納税物を納める時にも枡が使われたので、その際は納める税を減らすため、国司は小さい枡を使おうとします。後三条天皇は、升の大きさを統一することでそのような不正をできないようにしました。

後三条天皇によって規格化された枡は「宣旨枡」と呼ばれ、1300年頃まで使われ続ける公式の枡として長い間用いられることになります。

枡の統一は、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が太閤検地によって全国各地の収穫量を調査する際にも行われており、税制を考えるに当たっては非常に重要な要素の1つでした。その点を改善したというのは、後三条天皇の大きな功績の1つだと思います。

後三条天皇を支えた賢人、大江匡房

後三条天皇が天皇主導で善政を行えた背景には、後三条天皇のブレーン役として常に後三条天皇を支えていた大江匡房の存在があります。ちょっとだけですが大江匡房について説明します。

大江匡房は非常に博識な人物で、当時、大江匡房に学問で及ぶ者はいない!と言われていたほどでした。しかしながら、当時の朝廷社会は家柄やコネで出世が決まっていたため、有能でありながら大江匡房の境遇は決して恵まれたものではありませんでした。

能力に釣り合わない不遇の時代を過ごしていた大江匡房ですが、その有能さを認められまだ皇太子だった後三条天皇の学問の師に抜擢されたことで人生が大きく変わります。後三条天皇と大江匡房は非常に馬があったようで、大江匡房は後三条天皇の学問への姿勢を好意的に思い、一方の後三条天皇も大江匡房ことを大変信頼していました。

それに加え、後三条天皇も大江匡房もその地位・能力に比べて著しく不当な扱いを受けていたという点では似た者同士。このような点も2人が心が通じ合った理由の1つかも知れません。

そして、誰もが「天皇即位なんて無理だろwww」と思っていた後三条天皇がまるで不死鳥のように天皇即位を成し遂げたことで、大江匡房も遂に朝廷の要職に就くことができるようになりました。衰退する大江氏を大きく再興させたことに大江匡房はたいそう喜んだと言われています。

あまり歴史の表舞台には登場しませんが、不遇の時代から共に強い信頼関係で結ばれ後三条天皇を生涯支え続けた大江匡房は、後三条天皇について知る上では決して忘れてはならない存在です。

院政の始まり? 〜後三条天皇の譲位〜

1068年に即位した後三条天皇は、1072年に息子の白河天皇に天皇位を譲ります。

実は後三条天皇の治世はわずか4年しかありません。譲位当時、白河天皇は20歳、後三条上皇は39歳。後三条上皇は年齢的にまだまだ現役世代であり、このタイミングで後三条天皇が譲位した背景には、後三条天皇が院政を行う意図があったのでは?なんていう説があります。天皇主導で政治を行なっていた後三条天皇が、一番脂の乗った時期にわずか4年で退位とはなんとも不思議な話です。

それに、後三条天皇はその生い立ちから必然的に摂関藤原氏のことを良く思っていません。そんな後三条天皇が摂関家に政治を支配されないため、自らが上皇として天皇を補佐することで摂関藤原氏が政治に介入する芽を潰そうとして院政を考えたとも言われています。

後三条上皇は譲位翌年の1073年に病により亡くなってしまうのでその真意は測りかねますが、後三条天皇の治世が摂関政治→院政という日本の政治の大転換のきっかけとなったことには間違いありません。現に次代の白河天皇は、院政という日本独特の新たな政治機構を作り上げていきます。

まとめ

後三条天皇の治世は4年と短いものの、非常に密度の濃い時代です。100年以上続いた摂関政治の本格的な衰退・これまでになかった大胆な税制改革(延久の荘園整理令など)・院政の芽生えなど時代の大転換期となったのが後三条天皇の4年間の時代なのです。

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