誰でもわかる鑑真来日の感動物語【なぜ日本に戒律を伝えたのか】

Ganjin_wajyo_portrait

ちょうど、聖武天皇や行基が奈良の大仏を造立している頃、日本の仏教史を大きく塗り替えた1人の僧侶が唐から日本へやってきました。鑑真(がんじん)です。(上の写真)

鑑真は、唐の皇帝から「鑑真、あなたは唐にとってなくてはならない方だ。日本へ行ってはなりません。」と言われるほど、才能豊かで博識な人物でした。

鑑真は日本に計り知れないほどの大きな影響を与えました。

鑑真は密教や天台宗の教えを日本に伝えます。鑑真が来なければ、空海や最澄がここまで有名になることはなく、高野山や比叡山もただの山になっていたかもしれません。

さらに豆腐や味噌、漢方薬という現代の我々が使用している日常品。これらもまた鑑真が日本に伝えたと言われています。

鑑真がいなければ味噌汁に納豆・・・というTHE和の朝食もなかったわけです!!

今回はそんな重要人物、鑑真来日の感動の物語をわかりやすく解説していきます。

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そもそも、鑑真はなぜ日本に来たの?

ところで、なぜ鑑真ははるばる日本にやってきたのでしょう。

そこには、乱れた僧の風習を正そうとする朝廷の思惑がありました。

当時、日本は「仏さまを厚く信仰し、仏さまのご加護によって国を災いから護ってもらおう!」という鎮護国家の理念に基づく国造りを進めていました。

現代人から見れば、「は?」っていう感じでしょうが、現代ほど科学技術や自然科学が発展していないこの当時の人々にとっては、大切な理念だったのです。

これに伴い、日本では僧尼令という法律を制定し、「国で認めた人しか僧になっちゃダメ!」という決まりを作りましたが、

・認められた僧にもかかわらず、酒を飲み、女遊びをする僧が後を絶たたない

・国が認めてないのに勝手に僧になる(私度僧という。)

というのが社会問題となっていたのです。

どれだけの社会問題なのか現代風に表現すると、ちょうど最近話題の旭化成のくい打ちデータ改ざん問題や東芝の不正経理問題レベルの世間の信用を損なう大きな出来事だったのです。

普照(ふしょう)と栄叡(ようえい) -運命の遣唐使たち-

そんな僧の乱れに悩む朝廷は、ある時、「唐には僧を律するための「戒律」というルールがあり、僧たちはみな戒律に従い厳格な生活をしているそうだ」という噂を耳にします。

これに飛びついた朝廷は、733年に普照と栄叡という2人の僧たちにこう命じます。

これから遣唐使を派遣するから、お前たちも唐に行き「戒律」というものをぜひ日本に伝えてくれ!

こうして、733年、普照と栄叡は遣唐使と共に唐へ向かいます。

出発から2年後の735年。遣唐使たちは先に日本へ帰国しますが普照と栄叡は戒律を探すため、引き続き旅を続けました。

余談ですが、この735年の遣唐使たちの帰国が日本に天然痘をもたらし、日本で多くの人を苦しめます。

(天然痘については日本で最初の怨霊!?藤原広嗣の乱をわかりやすく解説!-聖武天皇はなぜ東大寺の仏像を造ったのか-

普照と栄叡は、唐という異国の地を9年間もの間放浪し続けます。挫折し諦めそうになったことも幾度となくあったでしょう。

執念の9年間、鑑真との出会い

9年間、異国の地での放浪は苦難の道のりだったはずです。しかし、普照と栄叡は諦めませんでした。

そして、742年、遂に普照と栄叡は鑑真と出会います。鑑真は唐で4万人以上の人々に授戒を行ったと言われ、唐でも有名な僧だったのです。

「授戒」という言葉がでてきました。授戒とは、戒律を守らせるために行う儀式のようなものです。新たに授戒を受けようとする僧は、10人ほどの僧の前で、「私は戒律を守ることを誓います!」と宣言するのが普通でした。

10人の僧が立会人となることで戒律を実効性あるものとしていたのです。1人で「戒律守るわ!」って言っても誰も信用しませんよね?

鑑真、来日を決意す

日本海は、荒波で多くの命を奪ってきた魔の海です。最初は、危険を冒してまで日本へ行くことに鑑真もその弟子たちも否定的でした。

しかし、普照と栄叡の必死のお願いにより、鑑真は日本へ戒律を伝えに行くことを決意します。

何が鑑真に命を賭してまで来日することを決意させたのか。実は定説が定まっていません。が、いずれにせよ、鑑真は強く決心したことは間違いないです。

普照と栄叡の9年の苦難が報われたかのように見えますが、これから想像を絶するさらなる苦難の道のりが待ち受けていることを普照と栄叡、鑑真たちはまだ知りません。

普照の死、鑑真の失明 -想像を絶する絶望-

第1回目の挫折:弟子の密告 -普照と栄叡、刑務所へ-

743年、さっそく渡航の準備を進めます。

しかし、当時の唐では一般人が海外へ行くことは固く禁じられていました。そのため、日本への渡航準備は、お役人にばれないようひっそりと行われていたのです。

しかし、鑑真の愛弟子たちは、役人たちに密航をばらします。弟子たちは、鑑真に危険な渡航をさせたくなかったのです。

こうして、第1回目の渡航は失敗し、鑑真を渡航させようとした罪で普照と栄叡は牢獄へ入れられます。

 第2回の挫折:暴風雨により失敗

普照と栄叡は、日本へ帰国することを条件に、釈放されます。

しかし、たった一回牢獄にぶち込まれたぐらいで諦める普照と栄叡ではありません。なんせ9年間も諦めない男たちですから。

744年、普照と栄叡は鑑真の下へ戻り、改めて密航の準備を行いました。

第2回は、お役人にばれることもなく渡航に成功。これで遂に日本に到着か!?と思った矢先、暴風雨により鑑真らは唐へ戻ることを余儀なくされます

第3・4回の挫折:弟子の密告 -栄叡、また刑務所行き-

同じ744年、すぐに3回目の渡航の準備をします。しかし、弟子がまた役人に密航計画を暴露しました。

栄叡は、また牢獄入りとなります。

そして、翌745年、懲りずにまたまた日本渡航の準備を開始します。栄叡は、病死を装い牢獄から抜け出しました。栄叡凄すぎだろ・・・。

そして、第4回目の渡航も弟子の密告により事前に阻止されてしまいます。

にしても、弟子の密告が多すぎます(汗
密告はすべて、鑑真の命が危ないと心配して弟子たちがとった行動です。鑑真はそれほどまでに弟子に愛されていたんですね。

その弟子たちを差し置いてでも日本へ行こうと決心した鑑真の心は何を思っていたのでしょうか・・・。

第5回の挫折:悪夢の渡航 -絶望の漂流記-

2

4回にもわたる渡航の失敗により、鑑真は役人から目を付けられてしまいます。しばらくは渡航準備は控えたようです。

そして、少し時間を空けた748年、第5回目の渡航に挑みます。最初の渡航失敗から5年。何度か牢獄入りもしましたが、まだまだ諦めません!

しかし、5回目の渡航も失敗します。今回は、暴風に流されて台湾よりももっと下に位置する海南島という島まで漂流してしまいます。上の地図を見てもわかりますが、ものすごい距離です。いくらなんでもタフすぎるだろ常識的に考えて・・・。

流れた鑑真らは、まだまだ諦めません。

再び港へ戻り、日本へ旅立とうと、陸路を引き返します。上の地図を見てもらったらわかりますが、陸路で引き返すにしても距離ありすぎじゃないですかね・・・。鹿児島から仙台ぐらいの距離あるけど・・・(汗

本当に鑑真らのタフネスには尊敬してしまいます。

陸路を引き返す途中、栄叡が逝去します。唐に来てから16年目の749年、道半ばの異国での無念の死でした。

不幸は続きます。生活環境の変化から体の体調を崩していた鑑真。目を失明してしまいます。南の温かい気候で疫病にでも感染してしまったのでしょうか・・・。

こうして、多くの被害を残して、第5回目の渡航は失敗します。

第6回目:悲願の日本へ

752年、日本から遣唐使がやってきました。733年以来約20年ぶりです。

(唐と日本は、20年に一回は唐へ朝貢しに来い!という約束がありました、詳しくは素朴な疑問。なぜ日本人は平城京へ遷都した?-遣唐使派遣-【その1】

そして、753年、遣唐使たちが帰国する船に鑑真と普照も乗り込もうとします。しかし、これだけの苦難を味わってもなお、大きな壁が立ちはだかりました。

唐の皇帝です。

唐の皇帝は、「鑑真のような優秀な人物は唐にいてくれなくては困る!」と鑑真の渡航を取りやめるよう命令します。遣唐使の代表者であった藤原清河(ふじわらのきよかわ)は外交問題に発展することを避けるため、皇帝の指示に従い鑑真の乗船を拒否します。

しかし、大伴古麻呂(おおとものこまろ)という人物の取り計らいにより、藤原清河にばれないよう、鑑真はこっそりと船に乗ることに成功します。

こうして、遂に鑑真は日本への渡航に成功します

しかし、実は今回の渡航でも嵐に見舞われていました。いくつかの船は大破し、日本へ戻ることはできませんでした。代表者だった藤原清河も戻れなかった人間の1人です。藤原清河はその後二度と日本へ戻ることはなく、唐で一生と終えました。

第6回目の渡航成功ですら、盤石なものではなく、たまたま鑑真の乗った船が大破しなかっただけなのです。

第1回の渡航失敗から10年目、普照と栄叡が旅を始めてから19年目の悲願の達成です。普照は悲願を達成し一体何を思ったのでしょうか。それは、昔に歩んだ栄叡との旅の思い出かもしれません。

鑑真はもちろん有名ですが、普照と栄叡についても鑑真と比べて遜色がないほど素晴らしい尊敬すべき人物です。教科書ではわからない影の立役者といったところでしょう。

聖武(太上)天皇に授戒を行う

鑑真は、奈良の大仏が安置される東大寺に授戒を行うための戒壇を設け、聖武太上天皇(太上は元天皇という意味)に対して授戒を行いました。

鑑真のもたらした戒律によって、僧にはより一層の厳格さを求められることになりますが、それが素地となって空海や最澄のような秀才が生まれたのだと思います。

鑑真は、唐招提寺(とうしょうだいじ)というお寺を建立しそこで暮らしていました。そして、763年、鑑真はその唐招提寺で亡くなります。日本の仏教の発展にすべてを捧げた波瀾万丈な人生がここに幕を閉じたのです。

唐招提寺は、今でも奈良の観光名所で有名です。せっかく行くなら、今回の記事で書いた鑑真の話を知っているととても楽しめると思います!

実は、唐招提寺について記事を書きました。詳しく知りたい方は、見どころ満載!唐招提寺を100倍楽しむ豆知識【鑑真ゆかりの寺】をご覧ください!

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