悲劇の皇子、有間皇子とは?辞世の句や系図をわかりやすく【中大兄皇子の陰謀】

今回は、悲劇の皇子として有名な有間皇子(ありまのみこ)について紹介します。有間皇子はその悲しき生涯や死に際に残した辞世の句が有名です。

有間皇子の系図

【有間皇子に関連する人物の系図です。困ったら上の系図を参考にしてください!】

有間皇子は、孝徳天皇という天皇の息子でした。有間皇子は、死ぬまでずっと中大兄皇子に翻弄され続ける人生を歩みます。その悲しき生涯は多くの人を今も惹きつけてやみません。

そんな有馬皇子の生涯について説明してみたいと思います。

狂人を装う有間皇子

有間皇子は孝徳天皇の息子として、次期天皇を担う存在でした。おそらく有間皇子本人も、天皇即位を望んでいたことと思います。ところが、孝徳天皇と時の権力者だった中大兄皇子の関係が悪化したことで有間皇子の状況は一変してしまいます。

653年、理由はわかりませんが孝徳天皇と中大兄皇子の不和が表面化します。中大兄皇子は当時の都だった難波宮を離れ、旧都だった飛鳥の地へ帰ってしまいます。ここで重大なのは、孝徳天皇の妃までもが夫を見捨て、中大兄皇子と一緒に飛鳥に帰ってしまった点です。正直、これはかなり異常な事態だと思います。

孝徳天皇と中大兄皇子の不和の理由は諸説ありますが、ただならぬ理由があったのだろう・・・と思います。その翌年の654年、妃にも見放されてしまった孝徳天皇は無念の死を遂げます。孝徳天皇は、乙巳の変後に即位した天皇で大胆な政治改革を断行した天皇でもありました。(実権は中大兄皇子が握っていたとも言われてますが)

そして655年、中大兄皇子の母である斉明天皇が即位します。斉明天皇は、当然、将来の天皇は自らの息子で政治能力にも長けた中大兄皇子だと考えます。そして、中大兄皇子が即位するにあたり、ライバルになるのが孝徳天皇の息子だった有間皇子なのです。

当時の世は、皇子たちはお互いにライバルでした。邪魔な皇子たちは謀略によって次々と消される運命にあります。このことを悟っていた有間皇子は孝徳天皇死後、大兄皇子にあらぬ嫌疑をかけられぬよう狂人を装うことにしました。中大兄皇子に追い詰められ本当にノイローゼになってしまった可能性もありますが、いずれにしても政治の世界からは離れるようになります。

このように狂人を装うことで有間皇子は、自分の命を守ろうとしたのですね。中大兄皇子は智謀に長けた男です。ちょっとした油断が命取りとなることを有間皇子はしっかりと心得ていたのです。

中大兄皇子と蘇我赤兄の陰謀

しかし、そんな有間皇子に中大兄皇子の魔の手が忍び寄ってきます。それは、658年の出来事でした。

658年のとある日、斉明天皇は温泉へと出かけ都を留守にします。都の留守役には蘇我赤兄(そがのあかえ)という人物が任されていました。天皇不在の都で蘇我赤兄が、有間皇子へ急接近します。

蘇我赤兄「有間皇子に話があります。今の天皇(斉明天皇)の政治は3つの点で良くない。大きな倉庫を建て民の財を集めたのが一つ、長い運河を掘って公の糧を費やしたのが二つ、舟に石を載せて運び丘を作ったのが三つ。今こそ、民のため立ち上がるべきです!」

こう有間皇子にそそのかして、有間皇子の正義心を駆り立てようとしたのです。蘇我赤兄は中大兄皇子と通じており、これは中大兄皇子の罠でした。一方で、斉明天皇が民を酷使していたのも事実です。

有間皇子は、蘇我赤兄の讒言を信じ込んでしまいます。有間皇子は蘇我赤兄と共に挙兵の準備を整え、皇位簒奪の準備を進めます。

蘇我赤兄はこれを中大兄皇子に通報します。「天皇不在の都で有間皇子が謀反の企みをしております!」と。こうして蘇我赤兄に騙された有間皇子の命運は尽きることになります。

有間皇子はただちに捕らえられ、斉明天皇の滞在している温泉地へと連行されて行きます。

有間皇子の辞世の句「磐代の〜」

そして死を覚悟した有間皇子は連行中に有名な次の一句を残しました。

磐代(いわしろ)の 浜松が枝を 引き結び 真幸(まさき)くあらば また還り見ん

(現代語訳)

磐代(今の和歌山県みなべ町)で浜にある松の枝を結び、命の無事を祈りました。もし私が生き残ることができたら、またこの枝を見たいものだ・・・。(´;ω;`)

当然、有間皇子は浜松の枝を見ることなく、処刑されます。蘇我赤兄と有間皇子が出会ってからわずか1週間後の話でした。あまりにも話が出来すぎています。これは中大兄皇子の陰謀だと言われています。

悲しき有間皇子の生涯

有間皇子の生涯はとても悲しい生涯でした。次期天皇と期待されていた時期もあったであろう有間皇子ですが、孝徳天皇と中大兄皇子の不和により有間皇子の人生は180度変わってしまいます。

658年に処刑されるまでの有間皇子の生涯は、ひたすらに自分を胸の内を隠し続ける生涯でした。中大兄皇子が有間皇子の失脚の機会を虎視眈々と狙っている中、迂闊に他人を信用することもできません。有間皇子は狂人を装っていたと言われていますが、私なんかは本当に精神を病んでいたんじゃないか?とか思っています。

そして、周囲の人々を信用できず、誰にも胸の内を明かすことのできぬまま政治の世界から離れていた有間皇子の心の隙間を狙ったのが蘇我赤兄だったのだと思います。

そもそも、狂人を装ってまで中大兄皇子を警戒していた有間皇子が蘇我赤兄の讒言にあっけなく賛同してしまうのはなんとも違和感のある話です。おそらく、有間皇子はとても正義感の強い人物で心の奥底では政治への志も捨て切れなかったのでしょう。

そんな長年胸に秘めた有間皇子の想いが、蘇我赤兄に狙われたです。蘇我赤兄の讒言を簡単に信じ込んでしまうほどに、天涯孤独だった有間皇子の心は衰退していたのでしょう。

中大兄皇子の謀略に怯え、他人を信用することもできず、天涯孤独だった・・・というのが有間皇子の悲しき生涯なのだと私は思っています。

まとめ

有間皇子のこのような生き様は、後世、多くの人を魅了しました。有間皇子の辞世の句は万葉集に編纂され、後世の歌人たちは有間皇子を偲ぶ歌を多く残しています。そして有間皇子が処刑された地(和歌山海南市)には今でも墓が残され、有間皇子神社という神社までが建てられています。

非業の死を遂げた有間皇子でしたが、その生涯ゆえに今もなお多くの人を惹きつけているのが有間皇子という人物なのです。

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